黒田家(くろだけ)・黒田正玄(くろだしょうげん)

黒田家(くろだけ)は、千家十職の一つの竹細工・柄杓師を務める家系

黒田正玄(くろだしょうげん)は、黒田家の当主が代々襲名している名前

【黒田家の経緯】

【柄杓】

 柄杓は、茶の湯において、釜の湯をくみ出すのに用いられる道具

 黒田家で製作する柄杓は「正玄型」と称され、風炉用・炉用・差通しの三種類がある

 湯を掬う容器の部分は、「合(ごう)」と称され、茶釜の口の大きさに合わせて作られる

 炉の季節(11月〜4月)と風炉の季節(5月〜10月)とで、使われる型が異なる
 風炉の柄杓は、炉の柄杓より一回り小さくて、清涼感もある

 釜から湯をくみ出す時の所作の凛とした美しさは、柄杓のバランスの良さにあるといわれる
 柄杓は、合から数cm先の柄の位置を指で支えた時にバランスが取れることが大切といわれ、
そのバランスを整えるために、柄の部分をどれだけ削るかが製作のポイントとわれる

【黒田家当主 黒田正玄】

 <初代>
 安土桃山時代
 1578年(皇紀2238)天正6年〜1653年(皇紀2313)承応2年8月8日
 越前国黒田郡(福井県)に生まれる
 字は「七郎左衛門」
 当主 越前守 丹羽長重に仕えていたが、関ヶ原の合戦で丹羽長重が西軍につき解任され、七郎左衛門も浪人となる
 その後、剃髪して「正玄」と号し、大津 瓜生山に移住して竹細工の製造を始める
 豊臣秀吉に柄杓を納めて「天下一」と称されていた醒ヶ井の井戸守の一阿弥に学んだといわれる
 その後、竹細工が評判となり、竹の茶道具製作を生業として京に移住する
 小堀遠州の元に通い茶の湯を修行し、その推挙により江戸幕府御用達の柄杓師となる
 大徳寺156世住持 江月宗玩の元に参禅していたことで、千宗旦に紹介されて柄杓を納めるようになる
 隠居後は、洛北 瓜生山の麓に住み、近所の石川丈山と親交を持つ
 現在も黒田家に掛かっているのれんの字は石川丈山の筆によるものといわれる
 長男の黒田正悦は、小堀遠州の推薦により広島藩士となる
 次男の黒田正円は、小堀遠州の推薦により膳所藩本多氏に仕え、晩年、官を辞して京の油小路通二条にて茶の湯指南となる

 <二代>
 1626年(皇紀2286)寛永3年〜1687年(皇紀2347)貞享4年4月14日
 初代の三男
 諱は「宗正」
 27歳の時に家督を相続する
 小堀遠州の推薦により徳川家光の御用柄杓師となる

 <三代>
 1656年(皇紀2316)明暦2年〜1717年(皇紀2377)享保2年10月2日
 二代の長男
 初名は「弥助」
 徳川綱吉、表千家6代 覚々斎、久田宗全の御用達を務める
 1704年(皇紀2364)宝永元年に隠居し「正斎」と名乗る
 1717年(皇紀2377)享保2年4月に室町通今出川に転居する

 <四代>
 1692年(皇紀2352)元禄5年〜1731年(皇紀2391)享保16年7月26日
 三代の長男
 13歳で家督を相続し、将軍家や三千家御用を務める
 40歳で死去する

 <五代>
 1708年(皇紀2368)宝永5年〜1778年(皇紀2438)安永7年7月15日
 四代に子供がいなかったため、二代の妻の実家 勝見五郎兵衛家から養子に迎えられる
 幼名は「才次郎」
 徳川吉宗、表千家 如心斎、裏千家 又玄斎、武者小路千家 直斎の御用を務める

 <六代>
 1747年(皇紀2407)延享4年〜1814年(皇紀2474)文化11年6月2日
 五代の長男
 幼名は「正次郎」、字は「弥吉」、剃髪後は「弄竹斎」「玄堂」と名乗る
 上京の町年寄を務めるなど、京の町人の中でも重鎮であり、柄杓師としては徳川家治、徳川家斉、表千家 さい啄斎、
裏千家 不見斎、武者小路千家 一啜斎の御用を務める
 1788年(皇紀2448)天明8年の天明の大火に遭遇、家屋敷を失う
 蔵だけは焼け残ったため、比較的古い資料を現代まで伝えている

 <七代>
 1768年(皇紀2428)明和5年 〜1819年(皇紀2479)文政2年12月7日
 六代の養子
 字は「弥三郎」、後に「弥吉」
 47歳で家督を相続する
 養父に引き続き上京町年寄、徳川家斉、表千家 了々斎、裏千家 認得斎、武者小路千家 好々斎の御用を務める

 <八代>
 1809年(皇紀2469)文化6年〜1869年(皇紀2529)明治2年10月15日
 七代の長男
 幼名は「熊吉」、元服後に「弥吉」
 11歳の時、父の死により家督を相続する
 先代に引き続き将軍家、三千家御用達柄杓師を務める
 幕末維新の動乱期の中、51歳で後継者を失い、明治維新によって大得意先の将軍家を失ってしまう

 <九代>
 1837年(皇紀2497)天保8年〜1859年(皇紀2519)安政6年10月20日
 八代の長男
 字は「弥一郎」
 修行中に、父親に先立って早世する

 <十代>
 1825年(皇紀2485)文政8年〜1900年(皇紀2560)明治33年12月22日
 八代の婿養子
 初名は「利助」
 八代の弟子であり、既に結婚独立していたが、九代の急死のため、急遽師匠の命により呼び戻されて後継者となる
 1869年(皇紀2529)明治2年、養父の死により家督相続する
 将軍家がなくなり、茶道も斜陽の時期を迎えるという困難の中、家業の維持に苦心する
 1881年(皇紀2541)明治14年に隠居する
 1900年(皇紀2560)明治33年12月22日に死去する
 遺言により黒田家の菩提寺ではなく修学院の実家の菩提寺に、筍型の墓石を築かれ、葬られる

 <十一代>
 1869年(皇紀2529)明治2年〜1911年(皇紀2571)明治44年8月15日
 十代正玄と八代正玄の娘の間に生まれた長男
 幼名は「熊吉」
 富岡鉄斎と親交があった
 表千家 碌々斎、裏千家 又しょう斎、武者小路千家 一指斎の御用を務める
 44歳のときに急死

 <十二代>
 1906年(皇紀2566)明治39年〜1988年(皇紀2648)昭和63年
 十一代の長男
 本名は「久万吉」
 父が死去したときまだ6歳だったため、叔父 黒田常次郎と父親の弟子 上田定次郎に後見される
 1926年(皇紀2586)大正15年に家督を相続する
 1943年(皇紀2603)昭和18年に政府認定技術保存資格者
 1976年(皇紀2636)昭和51年4月28日紺綬褒章受賞
 94歳で死去

 <十三代>
 1936年(皇紀2596)昭和11年〜
 本名は「正春」
 早稲田大学文学部卒
 1966年(皇紀2626)昭和41年に十三代 黒田正玄を襲名する

【黒田家ゆかりの地】

 <本隆寺
 歴代のお墓がある

【その他】

 <銘竹
 苦竹(マダケ)は主に用いられる
 青竹は2年生、白竹にする場合4〜5年ほどで伐採される
 竹の切り旬は、10月中旬〜11月で、竹の水分が少なく、また虫が入りにくい時期に行われる

 苦竹の他に、苦竹にシミが出たシミ竹やシボ竹なども用いられる
 シミのできかたなど、竹には一本一本に個性がある
 天然素材と作り手の一期一会の出会いがあるといわれる

 <しのぎ(鎬)>
 刀剣では、刃と峰との間に刀身を貫いて走る稜線のことを「しのぎ(鎬)」と称され、戦いの時には、しのぎが削れるほど
刃を激しくぶつけ合うことになる
 柄杓の柄の部分にも「しのぎ(鎬)」と称される部分がある
 武士にとって、刀をおいて入る茶の湯においては、柄杓が刀の代わりといわれる

 <竹細工>
 黒田家では、柄杓や茶杓の他にも、花入、薄茶器、香合、中次、台子などの竹細工も製作されている
 竹の幹だけでなく、根や節などの部分も用いられている

 <のれん>
 石川丈山筆ののれん「大津 茶ひしやく屋 正玄」が伝えられている


【京都検定 第9回1級】

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