永谷宗円(ながたにそうえん)は、江戸時代中期に、日本煎茶の主流となる「青製煎茶製法」を考案した
当時、高級な碾茶栽培は、特定の御茶師しか許可されておらず、富裕層が飲んでいた抹茶と異なり、
庶民が飲んでいたのは、色が赤黒く味も粗末な煎茶だったといわれる
永谷宗円は、15年かけて製茶法を研究し、露天栽培による茶葉で緑の新しい煎茶を作り上げた
永谷宗円はその製茶法を広く伝え、「永谷式煎茶」「宇治製煎茶」として全国に広まった
江戸時代中期
宇治は、茶栽培・製茶の名産地となっていた
湯屋谷は、宇治市街より約10kmの山あいの小さな集落だった
当時、高級な碾茶栽培(覆い下栽培)は、宇治の特定の御茶師にしか許可されていなく、
永谷宗円は、許可なく、露天栽培で美味しいお茶を作れないか、15年間、試行錯誤を繰り返したといわれる
当時、碾茶を製茶するときに、選び取り除いた葉柄や支脈を「折物」と称して、煎じて飲んでいた
折物は、揉捻がされていなく、適当の濃度にするため煮沸され、黄色で甘味がある特有の香りがあった
<青製煎茶製法>
1738年(皇紀2398)元文3年
永谷宗円は、釜炒工程やムシロの上で行っていた粗雑な揉捻作業を、
露天栽培のやわらかい新芽だけを使って、蒸してから焙炉上の助炭の上で手で揉みながら乾燥させることで
新しい煎茶を作り出した
<売茶翁 高遊外>
黄檗宗の僧で、煎茶道の祖
「古今嘉木歴覧」によると
1742年(皇紀2402)寛保2年の初夏
永谷宗円を訪ねていき、青製煎茶を飲んでとても気に入り、終日茶事を語り合ったといわれる
<永谷宗円の生家>
祖先の永谷家は山城国侍だったといわれる
1593年(皇紀2253)文禄元年
湯屋谷に移り住んできて山野を開拓し、茶園を開いて製茶業や湿田改良などの事業を行ってきた
永谷宗円が、製茶に使用していた焙炉の跡も残されている
<お茶の大木>
永谷宗円の生家の前庭にある大きな茶の木
幹の太さ3尺、高さ1丈3尺、枝梢の周囲3丈ほどあったといわれる
1872年(皇紀2532)明治5年の冬
樹齢600年ほどといわれていたが枯死する
上部の幹が保存されている
<茶宗明神社>
1954年(皇紀2614)昭和29年
永谷宗円生家に隣接する大神宮神社に、永谷宗円が「茶宗明神」として祀られる
湯屋谷村やその近郷の湿田の暗渠排水工事を行ってきたことから、村民から「干田大明神」と称されていた
4月に春の大祭、10月に秋の大祭が行われる