<初代 紹益>
1559年(皇紀2219)永禄2年−1622年(皇紀2282)元和8年
幼名:与十郎、紹高
越後出身
先祖から武具を製作していた
千利休の依頼・指導により薬鑵(やかん)を作ったのを契機に、現在の家業である茶道具作りを始めたとされる
代表作「利休薬鑵」
<二代 浄益>
1593年(皇紀2253)文禄2年−1670年(皇紀2330)寛文10年
幼名:重高
寛永年間(1624年〜1644年)に、三千家に納めるようになる
表千家四代 江岑宗左より、豪商 佐野紹益(灰屋紹益)と名前が紛らわしいことから浄益に改めるよう申しつけがあり、
これ以降は代々「浄益」を名乗る
妻は、金森重近(宗和)の娘
<三代 浄益>
1646年(皇紀2306)正保3年−1718年(皇紀2378)享保3年
幼名:重房、長十郎のち太兵衛
技術的に困難であった砂張の製法を発見して多くの名品を残しており、歴代の中でも鋳物の名人とされる
砂張(さはり)は、銅・錫・鉛の合金
<四代 浄益>
1658年(皇紀2318)明暦4年−1761年(皇紀2421)宝暦11年
幼名:重忠、後に、友寿・源吉
3人の息子に恵まれ、息子たちと共に家業を隆盛する
長男 中川源介友忠の代表作「覚々斎好渦唐金水指」
次男 中川治兵衛友輔も、銅工・鋳物の技に優れていたとされる
<五代 浄益>
1724年(皇紀2384)享保9年−1791年(皇紀2451)寛政3年
幼名:頼重・源吉、吉右衛門
四代の三男
この代から代々「吉右衛門」を名乗る
表千家八代 さい啄斎に重用される
晩年に天明の大火に遭い、ほとんどの家伝・家財を消失する
<六代 浄益>
1766年(皇紀2426)明和3年−1833年(皇紀2493)天保4年
幼名:頼方
五代の息子
表千家八代 さい啄斎の機嫌を損ね、一時、表千家の出入りを禁じられ裏千家のみの御用を務める
表千家九代 了々斎の代になって許される
歴代中随一の茶人であり、「宗清」の茶名を持っていた
<七代 浄益>
1796年(皇紀2456)寛政8年−1859年(皇紀2519)安政6年
幼名:頼実
「砂張打物の名人」「いがみ浄益」といわれ、天明の大火の中川家の中興といわれる
妻は、飛来一閑の三女 九満
<八代 浄益>
1830年(皇紀2490)天保元年−1877年(皇紀2537)明治10年
幼名:幾三郎
七代の婿養子
三井家手代 麻田佐左衛門の息子、妻は七代 浄益の娘 戸代
京都の博覧会の開催に尽力する
「浄益社」を設立して、海外への日本美術の紹介を行うが、後に失脚する
<九代 浄益>
1849年(皇紀2509)嘉永2年−1911年(皇紀2571)明治44年
幼名:益之助・紹芳
八代の息子
茶道の衰退期に家督を相続
父方の縁により三井家などから援助を受けるが、家業の建て直しがうまくいかず、アルコール依存症となる
<十代 浄益>
1880年(皇紀2540)明治13年−1940年(皇紀2600)昭和15年5月17日
幼名:紹心、淳三郎
別号:鎚鋳軒
九代の息子
早くから大阪の道具商のもとに修行に出される
第一次世界大戦勃発による軍需景気におり負債を完済、中川家再建の基盤を作る
代表作「青金寿老」「布袋像2体」「岩戸山柱金具(2柱分)」
<十一代 浄益>
1920年(皇紀2580)大正9年−2008年(皇紀2668)平成20年
幼名:紹真
十代の長男として生まれ、京都市立第二工業高校(現在の伏見工業高等学校)金属工芸科卒業
1940年(皇紀2600)昭和15年に、父親の死後、十一代 浄益を襲名する
2008年(皇紀2668)平成20年
十一代 浄益が死去したあと当主が空席となっている
<金物師(かなものし)>
風炉、釜、水指、建水、蓋置などの茶道具や、盆やきせるなどを製作する
材料は、鉄・金・銀(南りょう)・銅・青銅・真鍮など多種なものから仕立てられる
<槌物(うちもの)>
鉄を鍛造して制作される
<鋳物(いもの)>
鉄を加熱して溶かして鋳造して制作される
<錺師(かざりし)>
中川家は、「錺師(かざりし)」とも称され、狂いなく彫られた文様や緻密な京象嵌、繊細な打ち出しなど
優れた金工の技術を継承し金工の精巧な作品が作り上げられる
凛とした美しさと、金属を感じさせない柔らかさ、潤いさを感じさせる質感がある