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中村家は、茶道具の専門の「型物塗師」として活躍しているが、明治時代までは蒔絵入りの家具なども作っていた
後桜町天皇の即位の調度品を納品したこともあるといわれる
<初代 宗哲>
1617年(皇紀2277)元和3年−1695年(皇紀2355)元禄8年
幼名:玄弼
通称:八兵衛・八左衛門
号:公弼・方寸庵・塗翁・勇山・杯斎・漆翁
京都に生まれる
藤村庸軒、灰屋紹益らと親交があった
代表作に、江岑好 独楽香合、庸軒好 凡鳥棗、望月棗、朱茶樋などがある
塗を主とした地味で高雅な作風で、専ら千家の茶器を制作した
俳諧・詩歌・書画にも長じた
<二代 宗哲>
1671年(皇紀2331)寛文11年−1706年(皇紀2366)宝永3年
幼名:元哲
通称:八兵衛
号:勇斎
初代宗哲の子
代表作に、乱菊中棗などがある
<三代 宗哲>
1699年(皇紀2359)元禄12年−1776年(皇紀2436)安永5年1月22日
幼名:鍋千代
通称:八兵衛
号:方寸庵・漆翁・漆桶・勇斎・公弼・紹朴・芹生
幼少で両親に死別したが、表千家6代 覚々斎、7代 如心斎らに
引き立てられ「七事式」制定に参加する
俳人でもあり、与謝蕪村、几菫、堀内仙鶴らとも親交があった
歴代のうち「漆桶宗哲(しつようそうてつ)」と称され、最も著名とされる
1763年(皇紀2423)宝暦13年、後桜町天皇の即位の調度に蒔絵をほどこした
70歳のとき、700点の棗を作り、「彭祖の棗(ほうそのなつめ)」と称された
代表作に、覚々斎好 ブリブリ香合、少庵好 彭祖棗などがある
<四代 宗哲>
1726年(皇紀2386)享保11年−1791年(皇紀2451)寛政3年
通称:為安・八郎兵衛
号:深斎
三代の婿養子
1774年(皇紀2434)安永3年に、従六位下 主殿少属兼左生火官人に任じられる
署名には「豊田八郎兵衛」を名乗った
後桜町天皇の大礼御用品の御用も務めた
代表作に、三斎好 野風茶器などがある
<五代 宗哲>
1764年(皇紀2424)明和元年−1811年(皇紀2471)文化8年
通称:守一・八兵衛
号:豹斎・漆畝
四代の婿養子
1783年(皇紀2443)天明3年、従六位下 主殿寮補左生火官兼式部大録に任じられ、御所御用達となる
1788年(皇紀2448)天明8年、天明の大火で家を焼失するが、歴代の寸法帳などは持ち出せた
三代の未亡人からの聞き書きにより、家伝を作成する
俳人であり、三宅嘯山の弟子であった
代表作に、認得斎好 蔦蒔絵中棗などがある
<六代 宗哲>
1792年(皇紀2452)寛政4年−1839年(皇紀2499)天保10年
幼名:昌之助
通称:八兵衛・為一・八郎兵衛
号:楪斎
五代の長男
1811年(皇紀2471)文化8年、家督を相続する
1815年(皇紀2475)文化12年、弟に家督を譲り、自らは御所御用達と通例の塗師職(大名向け漆器制作)を営業する
代表作に、認得斎好 祇園攘疫棗、群亀棗、宝船棗などがある
<七代 宗哲>
1798年(皇紀2458)寛政10年−1846年(皇紀2506)弘化3年
幼名:槌六
通称:八郎兵衛・八兵衛
号:得玄・獏斎・黒牡丹
五代の次男
兄から家督を譲られ、形物塗師職人(茶道具漆器制作)となる
代表作に、名取川硯箱、夕顔台子皆具(浄雪・七代 浄益・旦入の合作)などがある
<八代 宗哲>
1828年(皇紀2488)文政11年−1884年(皇紀2544)明治17年
幼名:丑之助
通称:八郎兵衛・忠一
号:至斎・聴雨・蜂老
七代の長男
父七代宗哲に師事した
表千家11代 碌々斎、裏千家11代 玄々斎、井伊直弼の好み物をつくり、棚物や懐石家具も制作した
御所御造営や和宮御降嫁花嫁道具、将軍御上洛道具など多数の御用を務める
明治維新後は、京都博覧会会社に勤務
1876年(皇紀2536)明治9年、フィラデルフィアで開催された米国百年祭大博覧会に出品、銅賞を受賞
代表作に、碌々斎好 既望棗、玄々斎好 曙棗などがある
能筆で、和歌・俳句にも優れ、家伝・記録を詳細に残した
門下に釜師の二代下間庄兵衛がいる
<九代 宗哲>
1856年(皇紀2516)安政3年−1911年(皇紀2571)明治44年
旧姓:松崎喜三郎
号:義生・英斎・一畝・雲水
八代の婿養子
師範学校卒業後に、小学校訓導を務めていた
茶道の衰退期の中、京都美術工芸学校に勤務するなど家業の維持に苦心する
代表作に、玄々斎好 溢梅雪吹大小、溜ミル貝雪吹溜松木下張棗、粒菊蒔絵溜雪吹、黒絵玉書詰平棗、
惺斎好 鱗鶴大棗、松摺漆丸卓などがある
中村哲太郎は、九代 宗哲と十代 尼宗哲の長男
父親 九代 宗哲の死後に家督を相続し、「中村宗哲」として茶道具製作を行うが、その後、廃業する
<十代 尼宗哲>
1862年(皇紀2522)文久2年−1926年(皇紀2586)大正15年
名:真
八代 宗哲の四女、九代の夫人
岸田湘煙の女塾に入塾、自由民権運動の影響を受けて成長
府立女紅場一期生として入学、和裁を勉強する
結婚後は自宅で和裁塾を開いて家計を助ける
夫の死、長男の廃業に伴い、表千家12代 惺斎の命により家督預かりとなり、多数の道具を製作
代表作に、惺斎好・笹蒔絵硯箱・雛用柳桜茶具(合作)・雛用懐石家具・近江八景棗などがある
<十一代 宗哲>
1862年(皇紀2522)文久2年−1933年(皇紀2593)昭和8年
名:忠蔵・八郎兵衛
号:元斎・叩城・九土
九代の次男
京都府文化功労者、茶道文化功労者
1985年(皇紀2645)昭和60年、十二代に家督を譲り隠居する
代表作に、惺斎好 唐崎松中棗、醍醐枝垂桜大棗、即中斎好 四季 誰が袖蒔絵茶器などがある
<十二代 宗哲>
1932年(皇紀2592)昭和7年−2005年(皇紀2665)平成17年
本名:中村弘子
十一代の長女
兄たちが家職を継がなかったため、家職継承者に指名される
1955年(皇紀2615)昭和30年、京都市立芸術大学工芸科卒
1986年(皇紀2646)昭和61年、三千家への出仕を許され、女性として初めて正式に千家十職当主として認められる
茶道具以外にも多数の漆器を製作し、工芸家としての評価も高かった
心筋梗塞により急逝する
代表作に、而妙斎好・吉祥松溜雪吹・春野旅箪笥などがある
実娘3人も漆工芸家
<十三代 宗哲>
1965年(皇紀2625)昭和40年−
本名:中村公美
十二代の次女
京都市立銅駝美術工芸高等学校漆芸科卒
2006年(皇紀2666)平成18年、十三代 宗哲を襲名する
<利休形>
三代 宗哲が、千利休遺愛の茶道具から型を写し、十二器をパターン化した
<棗(なつめ)>
棗は、茶器の一種で、抹茶を入れる木製漆塗りのふた付き容器のこと
形が植物の棗に似ていることから、名付けられるようになった
<工程>
木地と称される素地の木の器に、下地の漆を塗り重ね、丹念に研いで形を整える
蓋との合わせ具合や、精密な面取りが行われる
上塗りでは、数種類の漆を塗り重ね、種類の異なる漆を使うことで変形を防いでいる