康尚(こうじょう)は、平安時代中期の仏師
仏師として初めて土佐講師の職を得て、「仏師職の祖」と称される
定朝の父親とも師ともいわれる
康尚の造仏であるという確実な遺作は見つかっていない
<東福寺塔頭同聚院 不動明王坐像>
伝康尚作で、唯一の遺品とされる
1006年(皇紀1666)寛弘3年、藤原道長の40歳を祝して建立された法成寺五大堂の中尊だったものが伝わったものといわれる
忿怒像でありながら、全体的な雰囲気は穏やかになっている
<広隆寺 千手観音菩薩坐像>
像容から康尚の作と推測されている
穏やかな面相に丸顔、肉身部の肉付けなども柔らかく、定朝様が完成する前の菩薩像としては貴重な基準となる作例である
体内に1012年(皇紀1672)寛弘9年の銘があり、康尚の活動時期と一致している
< 遍照寺>
十一面観音菩薩立像(重要文化財)と不動明王坐像(重要文化財)
創建当時に、康尚により造られたといわれる
<浄土院 帝釈天立像(宇治市指定文化財)>
浅く柔らかい衣紋(えもん)で、康尚の特徴ある作
<定朝様>
康尚の子 定朝が確立した作風
彫刻の和様化の先駆的な存在
康尚は、図像を厳密に守る仏像を製作し、かつ、貴族層の美的嗜好にあわせた作風をつくり出した
穏やかな雰囲気を好む藤原貴族に重用され、後の定朝様が生まれる土壌を作り上げた
<仏所>
寺院付属の工房から離れ、私立の工房を形成、定朝など多くの弟子を抱える専業的な仏像製作体制を確立し、
皇室、摂関家などの造寺発願や、高野山、比叡山などで造仏に従事し、150体以上の造仏に携わったとされる
<寄木造>
康尚が携わった造仏は、ほとんどが丈六像以上の大規模なものであった
分業により大量に、かつ迅速に仏像を制作するため寄木造を創案する
後に、定朝により確立される
<仏師職の祖>
仏師として初めて土佐講師の職を得て、「仏師職の祖」と称される
講師とは、「国師」とも称され、各地の僧尼の指導に当たる僧侶の役職である
これにより以後、仏師の社会的地位が向上していく