小川治兵衛(おがわじへえ)は、江戸時代中期から続く、日本庭園の作庭家・庭師
特に、七代目 小川治兵衛が、国の名勝とされる庭園を多く残している
江戸時代中期
宝暦年間(1751年〜1764年)
武士から造園の道を志し、帯刀を許された作庭家となる
生年:1860年(皇紀2520)万延元年
没年:1933年(皇紀2593)昭和8年
享年:74(満73歳)
本名:源之助
出身:乙訓郡神足村(こうたりむら)(現在の長岡京市)生まれ
七代目 小川治兵衛は、明治時代に活躍した近代庭園の先駆者となる作庭家
1877年(皇紀2537)明治10年
造園を業とする「植木屋治兵衛(植治)」こと小川家の養子となる
1879年(皇紀2539)明治12年
父親の急逝に伴って、七代目 小川治兵衛を襲名
江戸時代後期の作庭書などから伝統的な作庭を独学
法然院や久原庄三郎邸(くはらしょうざぶろうてい)(久原鉱業社長)などに出入りするようになる
廣誠院の庭園を、伊集院兼常の強い指示のもとで作庭し、庭作りの技術を身につけたといわれる
久原庄三郎から山縣有朋(やまがたありとも)を紹介されて、山縣有朋の別荘「無鄰菴」の庭園を作庭
伝統的な作庭に批判的だった山縣有朋の注文の期待に応える
そこで才能を開かれ、稲畑勝太郎、薩摩治兵衛ら政財界人の別荘の庭を数多く手掛ける
琵琶湖疏水の豊富な水と、東山の景観を利用して、雄大な自然の風景を作り上げる
生年:1882年(皇紀2542)明治15年
没年:1926年(皇紀2586)昭和元年
本名:小川保太郎
通称:白楊
八代目 小川治兵衛は、造園家・写真家・考古学者・茶人としても活躍する
<主な作庭庭園>
伏見桃山御陵
野村徳七邸(碧雲荘)
清浦圭吾邸(喜寿庵)
下郷伝平邸(清流亭)
岩崎久弥邸(織宝苑)
ウェスティン都ホテル佳水園
生年:1912年(皇紀2572)大正元年
没年:1944年(皇紀2604)昭和19年
本名:小川治郎
立命館大学経済学部卒
京都造園組合初代理事長
全国緑地統制組合初代理事長
<主な作庭庭園>
都ホテル
近衛文麿邸(陽明文庫)
岩崎小弥太邸
長瀬伝三郎邸
鮎川義介邸
生年:1939年(皇紀2599)昭和14年
没年:1983年(皇紀2643)昭和58年
本名:小川皓市
病弱であったため、当主を弟の雅史に譲る
生年:1942年(皇紀2602)昭和17年
本名:小川雅史
九代目 小川治兵衛の次男として生まれ、京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)を卒業
1966年(皇紀2626)昭和41年
造園植治に勤務
1970年(皇紀2630)昭和45年
十代目 小川治兵衛より、十一代目 小川治兵衛を受け継ぐ
生年:1973年(皇紀2633)昭和48年
本名:小川勝章
十一代目 小川治兵衛の長男として生まれる
1996年(皇紀2656)平成8年
立命館大学法学部を卒業し、造園植治に勤務する
<並河靖之七宝記念館庭園(旧並河靖之邸宅工房跡)>
<無鄰菴庭園(国の名勝)>
<平安神宮神苑(国の名勝)>
<碧雲荘(得庵野村徳七別荘)>
<慶雲館庭園(滋賀県長浜市)(国の名勝)>
<市田弥一郎邸對龍山荘庭園(国の名勝)>
<円山公園(国の名勝)>
<旧古河庭園(和洋折衷)(国の名勝)>
<京都国立博物館庭園>
<清風荘(旧西園寺公望邸)>
<何有荘(旧稲畑勝太郎邸)>
<建仁寺大雄苑(だいおうえん)>
<住友鹿ヶ谷別荘有芳園>
<真々庵(旧松下幸之助別邸)>
<楽々荘(田中源太郎旧邸庭園)>
<白河院庭園>
<洛翠庭園(旧藤田小太郎邸庭園)>
<高瀬川二条苑(角倉了以別邸跡・山縣有朋別邸)(現在、がんこ高瀬川二条苑)>
<東本願寺宮御殿前庭園>