明石博高(あかしひろあきら)は、明治維新時代の京都近代化政策の推進者
医薬商の家に生まれ、祖父 明石善方や津藩藩医の柏原学介から医学を学んだ
国文・歌学を僧 忍向や五十嵐祐胤に学び、儒学を神山四郎に学び、歌人としても著名
殖産興業・医療政策・救貧政策などの近代化において中心的役割を担った
明石博高は、殖産興業・医療政策・救貧政策などの近代化において中心的役割を担ったといわれる
京都府参事(後の京都府知事)槇村正直や、京都府顧問 山本覚馬の勧めで京都府で働き、
彼らと共に京都振興の諸政策を打ち出す
京都博覧会の開催、舎密局、パピール・ファブリック、総合病院、観象台の設置など、日本最初の試みをする
御所内病院を初めとして各病院の医師としても活動
医師試験制度の整備なども行う
西陣織復興のため織殿・染殿を設けて新しい技術導入を図り、
殖産興業として養蚕・製紙・製革・牧畜などの工場をおこし、京都の産業の発展に貢献した
慈善事業でも活躍し、学校を建設したり窮民授産所を開設するなど社会に貢献した
円山公園に吉水温泉を建てるなど文化観光策にも力を注ぎ、多岐にわたる事業を展開した