島津源蔵(しまづげんぞう)は、明治時代の発明家、実業家
家業の仏具三具足の製造販売業を始めるが、「科学立国」の理想に燃えて、京都府の殖産興業政策に呼応し、
国民への科学知識の普及と、教育振興を図る目的で教育用理化学器械の製造業へ事業を転換させ、島津製作所を創業した
<島津家>
桃山時代
島津源蔵の祖先 井上惣兵衛尉茂一が、播州に住んでいた
薩摩藩 島津義弘が、伏見から帰国の途上に、豊臣秀吉から新たに拝領した播州姫路の領地に立ち寄ったとき、
井上惣兵衛が、領地の検分などに誠心誠意お世話をしたといわれ、
島津義弘から、「島津」の姓と、「丸に十の字(くつわ)」の家紋を贈られたといわれる
<法輪寺>
学神堂に島津源蔵夫妻の念持仏が祀られている
<有人水素気球>
1877年(明治10年)
京都府は科学思想啓発のために国内初の有人気球を計画し、島津源蔵がその実行責任者となる
気球のガス球部分には胡麻油で溶かした樹脂ゴムを塗布した羽二重を用い、鉄くずと硫酸を四斗樽10個を使って
発生させた水素ガスが内部に封入された
招魂祭が行われた仙洞御所の広場で飛行試験が行なわれ、5万人の観衆の前で約36mの高さまで気球が浮上した