九条家(くじょうけ)は、五摂家の一つの公家
藤原氏北家嫡流の藤原忠通の三男である九条兼実を祖とする(長男 近衛基実は近衛家の祖)
九条にあった九条殿に住んでいたことが家名の由来
<九条兼実>
1149年(皇紀1809)久安5年 - 1207年(皇紀1867)承元元年
藤原氏北家嫡流の藤原忠通の三男
九条家の創始
<九条良経>
1169年(皇紀1829)嘉応元年 - 1206年(皇紀1866)元久3年
九条兼実の次男
<九条道家>
1193年(皇紀1853)建久4年 - 1252年(皇紀1912)建長4年
九条良経の長男
九条家の後継ぎなどを定めた九条家領初度処分状(遺言状)を九条忠家に渡す
<九条教実>
1211年(皇紀1871)建暦元年 - 1235年(皇紀1895)文暦2年
九条道家の長男
父親に先だって死去し、子の九条忠家が跡を継ぐ
<二条良実(九条良実)>
1216年(皇紀1876)建保4年 - 1270年(皇紀1930)文永7年
九条道家の次男
父親 九条道家とは勘当状態となり二条家を興す
<藤原頼経(九条頼経)>
1218年(皇紀1878)建保6年 - 1256年(皇紀1916)康元元年
九条道家の三男
鎌倉幕府 4代将軍となる
<一条実経(九条実経)>
1223年(皇紀1883)貞応2年 - 1284年(皇紀1944)弘安7年
九条道家の四男
一条家の祖
父親 九条道家の九条家領初度処分状により、最初に藤氏長者を継ぐとされる
<九条忠家>
1229年(皇紀1889)寛喜元年 - 1275年(皇紀1935)建治元年
九条教実の長男
祖父 九条道家から九条家領初度処分状(遺言状)を受ける
<九条忠教>
1248年(皇紀1908)宝治2年 - 1332年(皇紀1992)元弘2年/正慶元年
九条忠家の長男
<九条道孝>
1839年(皇紀2499)天保10年 - 1906年(皇紀2566)明治39年
最後の藤氏長者
四女の節子は、大正天皇の皇后(貞明皇后)となる
<九条道実>
明治2年 - 1933年(皇紀2593)昭和8年
九条道孝の長男
華族、公爵、貴族院議員
<九条道弘>
1933年(皇紀2593)昭和8年 -
九条道実の長男
藤原氏の後裔で組織する藤裔会の会長
平安神宮の宮司
<九条邸跡>
現在の京都御苑の南西部にあった
現在は、庭園部分のみが整備されて残っている
庭園の池(九条池)の中島には、鎮守社であった厳島神社が現存し、池畔には茶室「拾翠亭」が現存している
母屋などの主要な建物は、明治初期の東京移住命令に伴い東京の九条邸に移築され、
さらに近年、九条家より東京国立博物館に寄贈され、「九条館」と命名されている
<東福寺>
開基:九条道家 開山:円爾弁円
摂政 九条道家が、九条家の菩提寺の創建を願って、この地に高さ5丈(約15m)の釈迦像を安置するための大寺院を建立した
<隨心院>
門跡寺院となり、一条家・二条家・九条家などの出身者が多く入寺する
1599年(皇紀2259)慶長4年
九条家から入った第24世 増孝が、本堂が再建し復興されたく
<二尊院>
法然上人が九条家の協力を得て中興した
<藤原北家(ふじわらほっけ)>
藤原氏祖 藤原鎌足の孫であり、右大臣 藤原不比等の次男である藤原房前を祖とする家系
藤原房前の邸宅が、兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことが名前の由来
嫡流は、藤原忠通の長男 近衛基実を祖とする近衛流(近衛家)と、藤原忠通の三男 九条兼実を祖とする九条流(九条家・一条家)の
2流となっている
<五摂家>
藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5つの家
摂政・関白、太政大臣に昇任できた家系
近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家
九条道家(九条家始祖の九条兼実の孫)の長男の子 九条忠家が新九条家、次男 九条良実が二条家、
四男 九条実経が一条家を創始する
<家領初度処分状>
1250年(皇紀1910)建長2年11月
九条道家は、長男 九条教実に先立たれ、次男 九条良実は勘当状態となり、九条教実の子 九条忠家に処分状(遺言状)を渡す
日記などの文書類(最も重要な遺産とされる)は、一条家の相伝とする
東福寺などの一族寺院の管理権を司る家長者は、最初は三男である一条実経が継ぐ
その次には長男 九条教実の子 九条忠家が継承する
以後は、2人の子孫のうちで、最も官職の高い人物(一門上首)が継ぐ
藤家長者は、この2人の子孫が断絶、あるいは摂関の地位に就けずに摂家の資格を失った場合には、
その所領を没収できるものとした