八条宮(はちじょうのみや)・桂宮(かつらのみや)は、宮家の一つで、四世襲親王家の一つ
桃山時代に、正親町天皇の第一皇子 誠仁親王の第六皇子 智仁親王を祖とする
明治時代に断絶する
主な所領が桂周辺にあり、智仁親王は別邸「桂離宮」を創建し、八条通にあったことから「八条宮」と称された
石高3000石余は宮家中最大といわれる
<八条宮智仁親王(はちじょうのみや としひとしんのう)>
八条宮(桂宮)家の初代
生年:1579年(皇紀2239)天正7年1月8日
没年:1629年(皇紀2289)寛永6年4月7日
正親町天皇の皇子・誠仁親王の第六皇子
母親:勧修寺晴右の娘 新上東門院(藤原晴子)
兄:五宮邦慶親王(織田信長の猶子となる)
別称:八条の皇子
兄の後陽成天皇は、当初、皇位継承者とされていた実子の良仁親王を廃して、
弟の智仁親王に皇位を譲ろうとしたが、徳川家康に、智仁親王が豊臣秀吉の猶子であったことから反対される
1611年(皇紀2271)慶長16年
皇位は、良仁親王の弟の政仁親王(後水尾天皇)が継ぐこととなる
<八条宮智忠親王(はちじょうのみや としただしんのう)>
八条宮(桂宮)第2代
生年:1620年(皇紀2280)元和6年11月1日
没年:1662年(皇紀2322)寛文2年7月7日
八条宮智仁親王 第1王子
母親:丹後国主京極高知の娘 京極常子
1624年(皇紀2284)寛永元年
後水尾天皇の猶子となる
1626年(皇紀2286)寛永3年12月
親王宣下を受け、「忠仁(ただひと)」と命名され、後に「智忠親王」と改称する
1629年(皇紀2289)寛永6年4月
父親 智仁親王の死去により宮家を継承する
1642年(皇紀2302)寛永19年9月
前田利常の女富子を妃とする
1654年(皇紀2314)承応3年
後嗣ができず、後水尾天皇の第13皇子 穏仁親王を養子とする
父親 智仁親王の影響を強く受けて、学問を好み、和歌・書道に秀でていた
智仁親王が造営した桂離宮が荒廃していたところ、改修、御殿の増築、庭園の整備を行った
<3代 八条宮穏仁親王>
後水尾天皇の皇子
<4代 八条宮長仁親王>
後西天皇の皇子
<5代 八条宮尚仁親王>
後西天皇の皇子、長仁親王の弟
<6代 常磐井宮作宮>
霊元天皇の皇子
<7代 京極宮文仁親王>
霊元天皇の皇子、作宮の兄
<8代 京極宮家仁親王>
文仁親王の王子
<9代 京極宮公仁親王>
家仁親王の王子
<10代 桂宮盛仁親王>
光格天皇の皇子
<11代 桂宮節仁親王>
仁孝天皇の皇子
<12代 桂宮淑子内親王>
仁孝天皇の皇女、節仁親王の姉
<桂宮邸>
京都御苑内の同志社女子大学今出川キャンパスと京都御所との間にある
敷地を囲む築地塀と、表門と勅使門の二つの門が残る
御殿は、二条城本丸に移築された
幕末維新
孝明天皇の仮皇居となっていた
現在は、宮内庁職員の宿舎の敷地として使われている
<桂離宮>
八条宮の別荘として、八条宮家初代 智仁親王と智忠親王の親子によって約50年間かけて造営される
「古書院」「中書院」「新御殿」の3つの書院・茶屋・池泉回遊式庭園から成る
数奇屋造の江戸時代の代表的山荘
<慈照院>
相国寺の塔頭
桂宮家と、分家の広幡家の菩提寺
客殿は桂宮邸から移築されたもの