以仁王(もちひとおう)は、平安時代末期の後白河天皇の第三皇子
幼少から学問や詩歌、書や笛に秀でており、皇位継承の有力候補とされていたが、
異母弟 憲仁親王(高倉天皇)の生母 春門院平滋子の妨害により親王宣下も受けられなかった
全国の源氏に平氏打倒の挙兵を促す「以仁王の令旨」を出して、平氏滅亡に至った源平合戦の契機となる
邸宅が三条高倉にあったことから、「三条宮」「高倉宮」とも称された
全国の源氏に平氏打倒の挙兵を促す指示で、平氏滅亡に至った源平合戦の契機となる
「吾妻鏡」の冒頭に記されているところによると
「下す 東海・東山・北陸三道諸国の源氏、ならびに群兵らの所、
まさに早く清盛法師ならびに従類叛逆のともがらを追討すべき事」
これを受けて、源仲綱(源頼政の長男)が、勅の内容を述べていることが記されている
「右、前の伊豆守上五位下源朝臣仲綱宣す、
最勝王の勅を奉るにいはく、清盛法師ならび宗盛ら、威勢をもって凶徒を起こし、国家を亡ぼし、百官万民を悩乱し、
五畿七道を虜掠す。
皇院を幽閉し、公臣を流罪し、命を断ち、身を流し、淵に沈め、楼に込め、財を盗み、国を領し、官を奪い、職を授け、
功無きに賞を許し、罪にあらざるにとがに配す。
あるいは諸寺の高僧を召しとり、修学の僧徒を禁獄し、あるいは叡岳の絹米を給下し、謀叛の粮食に相具す。
百王の跡を断ち、一人の頭を切り、帝皇に違逆し、仏法を破滅すること、古代に絶するものなり。
時に天地ことごとく悲しみ、臣民皆愁ふ。
よって吾は一院の第二皇子として、天武皇帝の旧儀を尋ねて、王位をおし取るの輩を追討し、上宮太子の古跡を訪ひて、
仏法破滅の類を打ち亡ぼさんとす。
ただに人力の構へを憑むのみにあらず、ひとへに天道のたすけを仰ぐところなり。
これによつて、もし帝王・三宝・神明の冥感あらば、なんぞたちまちに四岳合力の志なからんや。
しかればすなはち、源家の人、藤氏の人、兼ねては三道諸国の間、勇士に耐へたるものは、同じく与力して追討せしめよ。
もし同心せざるにおいては、清盛法師が徒類になぞらへ、死流追禁の罪過に行ふべし。
もし勝功ある者においては、まず諸国の使節に預らしめ、御即位の後、必ず乞ふに従ひて勧賞を賜ふべきなり。
諸国よろしく承知し、宣に依ってこれを行ふべし。
治承四年四月九日 前伊豆守正五位下源朝臣」