聖徳太子(しょうとくたいし)は、飛鳥時代の皇族、政治家で、厩戸皇子の後世での呼び名
推古天皇のもとで、摂政として蘇我馬子と政治を行い、遣隋使を派遣するなど、大陸の文化や制度を取り入れて、
冠位十二階や十七条憲法を定めるなど、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図ったとされる
仏教を篤く信仰した
<冠位十二階>
朝鮮諸国の冠位制度を参考に定められた律令制の位階制の源となるもの
儒教の徳目を現わす言葉「徳・仁・礼・信・義・智」を、それぞれ大小にわけて12階(大徳〜小智)とした
位ごとに色分けした冠(帽子)を授けられ、紫・青・赤・黄・白・黒の順で、さらに色の濃淡が付けられた
血縁に関係なく、格の低い氏族の出身者でも頑張れば高い地位につけた
<憲法十七条>
日本最初の成文の法令集
太子が理想国家の実現へ願いを込めて作った、官僚の行動倫理
仏教や儒教の長所が導入されている
第1条「和をもって貴しと為す」
第2条「篤く三宝(仏・法・僧)を敬え」
第4条「官僚は礼の精神を根本とせよ」
第5条「官僚は欲を貪(むさぼ)らず民の訴えを公正に裁け」
第6条「悪を懲らしめて善を勧めよ」
第16条「春から秋までは民を使役してはいけない」
現在、最高裁判所には、聖徳太子が十七条憲法を制定する場面が描かれた絵が飾られている
★聖徳太子により創建されたところ★
<法隆寺(奈良県斑鳩町)>
聖徳太子の創建
釈迦三尊像(国宝)は、聖徳太子の等身大に造られており、仏師 止利(とり)が、聖徳太子が亡くなる前年に彫り始め、
死後に完成したもので、像の背後には、止利により、太子追悼の銘文が刻まれている
<六角堂>
聖徳太子の創建
聖徳太子が、四天王寺の建立のために用材を探しにこの地を訪れ池で水浴をしたときに、
そばの多良の木(たらのき)にかけておいた持仏の如意輪観音菩薩が、木から離れなくなり、その観音菩薩がこの地にとどまり
衆生済度を希望しているとの夢のお告げを受けて、六角形の堂を建立し、如意輪観音菩薩を安置したのが由来といわれる
聖徳太子の2才の頃の南無仏像が安置されている
<法観寺>
法観寺の五重塔 通称「八坂塔(やさかのとう)」は、聖徳太子により建てられたものといわれ、東山地区のランドマークとなっている
<寂光院>
聖徳太子が、父親 用明天皇の菩提のために創建し、聖徳太子の乳母の玉照姫(恵善尼)が初代住職となったといわれる
<上品蓮台寺>
聖徳太子が創建し、「香隆寺」と称されたといわれる
<乙訓寺>
推古天皇の勅願により、聖徳太子が創建した寺院
<聖徳寺>
聖徳太子が、六角堂を創建したときに、自ら館舎を創建したのが由来
<光明寺>
聖徳太子により創建されたといわれる
★聖徳太子が祀られているところ★
<月読神社>
末社 聖徳太子社に、月読尊を崇敬した聖徳太子の徳を称えて祀られている
<祇園祭の山鉾 太子山>
聖徳太子が祀られている
聖徳太子が、四天王寺を建立するために自ら良材を探しに山に入り、老人に大杉の霊木を教えられ六角堂を建てた故事に由来する
★聖徳太子の像があるところ★
<広隆寺>
秦河勝が、聖徳太子から弥勒菩薩半跏思惟像(国宝1号)を賜り、蜂岡寺を造営したのが由来
木造聖徳太子半跏像(重要文化財)
<金剛寺 八坂庚申堂>
本堂の正面中央には、秘仏の本尊 青面金剛が祀られており、左手には、地蔵菩薩や聖徳太子像などが安置されている
<佛光寺>
順徳天皇より、聖徳太子にまつわる「興隆正法」の勅願を賜り、これを略し「興正寺」として、真宗念仏の根本道場とされる
木造 聖徳太子立像(重要文化財)が、阿弥陀堂の内陣の須弥壇上の本尊 阿弥陀如来立像の脇壇に安置されている
<経書堂>
本尊として、聖徳太子が16歳のときの像が祀られている
<宝積寺>
江戸時代の作の聖徳太子立像が安置されている
<興正寺>
順徳天皇より、聖徳太子にまつわる「興隆正法」の勅願を賜り、これを略し「興正寺」として、真宗念仏の根本道場とされる
阿弥陀堂の中央に阿弥陀如来像、左右に七高僧、聖徳太子の御影が安置されている
<神應寺>
本堂の本尊の薬師如来、日光・月光像、位冠束帯姿の豊臣秀吉坐像、聖観世音菩薩像、聖徳太子像が安置されている
★聖徳太子が作製した像があるところ★
<仲源寺>
仏師 定朝が「末代衆生済度」のために、38ヶ月を経て丈六の地蔵菩薩を作り上げ、
自ら護持していた聖徳太子作の地蔵菩薩をその像内に込め、四条大橋の東北に祀ったといわれる
<寶徳寺>
本尊 阿弥陀如来は、聖徳太子が42歳のとき、厄除け守護の本尊仏として刻んだ霊像
聖徳太子が、宮中で無量寿経を説いたときに、お経の中に「神力大光を演べて、普く無際の土を照らし、三苦の闇を消除して、
広く諸の厄難を救い玉う」とあり、これを深く信じ、厄除け守護の本尊仏として刻んだとされる
<明福寺>
本尊 阿阿弥陀如来立像は、聖徳太子の作といわれる
<山崎聖天>
本尊 十一面千手観世音菩薩は、聖徳太子の作といわれる
★聖徳太子に縁があるところ★
<知恩院>
聖徳太子の伝記で、現存する唯一の写本「上宮聖徳法王帝説(国宝)」がある
<放生院>
聖徳太子の発願により、秦河勝が創建したといわれる
<愛宕念仏寺>
聖徳太子の発願で、称徳天皇の開基により、山城国愛宕郡(現在の東山区、六波羅蜜寺の近く)に「愛宕寺」が創建されたのが由来
<西芳寺>
聖徳太子の命で創建された四十九院のうちの一つ
<延暦寺>
大講堂の本尊の両脇には、中国天台宗開祖 智顗、最澄、桓武天皇、聖徳太子が祀られている
椿堂は、聖徳太子が、比叡山に宝塔が現れるのを見て、比叡山に登られ、常に護持していた観音菩薩像を祀り、
使っていた椿の木の杖をさして置いたといわれる
<太子道>
太秦の広隆寺への参詣道として聖徳太子が通ったとされる道
叡福寺北古墳(聖徳太子御廟)(磯長陵)(しながりょう)(大阪府南河内郡太子町)
直径約55m、高さ約100mの円墳で、内部は横穴式石室になっている
墳丘の周囲は、「結界石」と称される石の列によって二重に囲まれている
聖徳太子・母親 穴穂部間人皇女・妃 膳大郎女の3人が合葬されていることから「三骨一廟」と称される
724年(皇紀1384)神亀元年に聖武天皇が伽藍を建て、太子信仰が盛んになり霊場となった
周辺は「王家の谷」と称され、推古天皇、敏達天皇、用明天皇、孝徳天皇陵などがある
聖徳太子は、27歳の時に、墓所の候補地を既に決めており、死亡する2年前に自身の廟を造っていたといわれる
権力を誇る者の愚かさを知っており、自分の子孫を残さないように風水の吉兆の気を断ったといわれる
<聖徳太子御火焚祭>
11月22日 広隆寺
聖徳太子の命日にあたり、護摩供養が行われる
この日のみ本尊 聖徳太子像や秘仏 薬師如来像が、ご開帳される
<聖徳太子御祥忌>
2月21日
佛光寺
<名前の由来>
本名:厩戸皇子(うまやどのおおじ)
名前の由来については、いろいろな伝承がある
・厩(馬小屋)の前で産まれたから
・母親が実家である蘇我馬子の屋敷で出産したため
・出生地が「厩戸」(明日香村・橘寺付近にあった地名)であった
・蘇我氏が興隆した地「馬屋戸」(奈良県御所市)から
<俗称「豊聡耳(とよとみみ)」>
厩戸皇子が、人々の請願を聞く場があったときに、
一度に10人の話を聞き、それぞれに的確な答えを返答することができたことから
<通称「聖徳太子」>
日本書紀にも「聖徳太子」という呼称はなく、後世で呼ばれた名前
751年(皇紀1411)天平勝宝3年に編纂された「懐風藻」の序文が、最初に残されている記録とされる
聖徳太子の師 恵慈が、聖徳太子の死を知って「太子は聖(ひじり)の徳を持っていた」と詠嘆したことによるといわれる
<へそ石>
聖徳太子が建立した六角堂の本堂の前にある、京都の中心に位置するといわれる礎石
平安京造営にあたり、六角堂が、条坊制による東西の小路の中央に位置して邪魔になっていたところ、
勅使が南北のどちらかに移動してもらうことを祈願すると、黒雲が現れて、六角堂が自ら北方へ5丈(約15m)動いたと記されている
その跡に残った礎石が「へそ石」と称される
<親鸞聖人>
百日参籠95日目の暁の夢中に、聖徳太子(救世菩薩の化身)が現れ、「修行者が前世の因縁によって女性と一緒になるならば、
私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう。
此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」との夢告を受ける
<秦河勝>
大和王権で活躍した秦氏出身の豪族
聖徳太子のブレーンとして活躍した
<風姿花伝>
世阿弥が著した能の理論書
それによると、聖徳太子が、秦河勝に命じて、諸人快楽(しょにんけらく)のために六十六番の遊宴を行い、これを「申楽」と名付けた
<悲田院(ひでんいん)>
仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設
聖徳太子が、隋に見習い、大阪の四天王寺に四箇院(悲田院・敬田院・施薬院・療病院)の一つとして建てたのが
日本での最初といわれる
<紙幣の肖像>
1930年(皇紀2590)昭和5年、百円紙幣に初めて登場し、千円紙幣、五千円紙幣、一万円紙幣と累計7回と使用された
1958年(皇紀2618)昭和33年から1984年(皇紀2644)昭和59年に発行された「一万円紙幣」の聖徳太子像は、
最古のものといわれる唐本御影から採用された
1948年(皇紀2608)昭和23年発行の500円収入印紙にも聖徳太子の肖像画が採用されている