清和天皇(せいわてんのう)は、平安時代初期の第56代天皇
清和源氏の祖(武家の棟梁)
外祖父 藤原良房に対して、天下の政を摂行せよとの勅を出し、人臣による摂政が始まった
「源氏物語」の光源氏のモデルの一人ともされる
皇后 藤原高子は、「伊勢物語」に登場する「二条の后」
学問を好み、鷹狩などは好まなかったといわれる
律令制度の整備や、学問の振興には積極的に関わり、治世が評価されている
「貞観格式(じょうがんきゃくしき)」が編纂される
「続日本後紀」が編纂される
<石清水八幡宮>
清和天皇の子孫である源氏一門は八幡大神を氏神として尊崇し、全国各地に八幡大神が勧請された
<若宮神社>
清和天皇が祀られている
清和源氏の総領 源頼光の屋敷の鎮守社だった
<諸羽神社>
清和天皇により社殿が造営され創建され「両羽大明神」と称される
<藤森神社>
5月5日の藤森祭(深草祭)は、清和天皇の勅命により、藤原良房が行った「貞観の祭」が由来といわれる
<御香宮神社>
清和天皇から「御香宮」の名称を賜わる
<日向大神宮>
清和天皇の勅願によって、天照大御神を粟田山に勧請されて創建される
清和天皇・後奈良天皇・後陽成天皇の勅額がある
<神泉苑>
清和天皇により、流行していた疫病の退散のため、初めて御霊会が行われ、早良親王、井上内親王ら祭神6座が祀られる
<下御霊神社>
神泉苑の祭神6座が下出雲寺に祀られたのが由来
<永観堂>
清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の真言宗の寺院となる
熊野若王子神社を創建時の鎮守社として祀ったといわれる
<元慶寺>
清和天皇の勅願寺となり、「崋山寺」から「元慶寺」に改称される
<法輪寺>
針供養は、清和天皇が、廃針を納めた針堂(はりどう)を建立したことが由来といわれる
<清浄華院>
清和天皇の勅願により、慈覚大師 円仁が、天台宗・真言宗・仏心・戒律の四宗兼学の禁裏内道場として、
土御門内裏(つちみかどだいり)の付近に創建される
<御陵(みささぎ)>
水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)
右京区嵯峨水尾清和(水尾山腹)
水尾山の山腹にあり、愛宕山の西南2kmの山間狭隘の地にある
形式:円丘
所在がほぼ確かな平安時代の天皇陵の1つ
薄葬の遺詔に従って山陵を起さず、延喜式諸陵寮には、記せられていない
<火葬塚>
金戒光明寺の裏山にある「経塚」と称する塚
1926年(皇紀2586)大正15年に治定された
「三代実録」によると
880年(皇紀1540)元慶4年12月7日
洛東の上粟田山で火葬され、遺骨は、かねて終焉の地と定めておられたこの地に葬り「水尾山陵」と称された
<清和源氏の祖>
最初に4人の皇子 長猷・長淵・長鑒・長頼に「源」の賜姓が行われる
次いで、貞固・貞元・貞保・貞純・貞数・貞真ら諸親王の皇子や、清和天皇の皇孫の多くが源氏となった
その時点での清和源氏だけでも約15流ほどあったといわれる
<惟喬親王(これたかしんのう)>
6歳年長の異母兄
紀名虎(きのなとら)の娘 静子の生んだ文徳天皇の皇子
文徳天皇は、惟喬親王の即位を望まれていたといわれるが、
太政大臣 藤原良房の娘 明子が生んだ清和天皇に負ける
「平家物語」によると
紀名虎と藤原良房が、相撲で勝負を決めたといわれる
「大鏡」「江談抄」によると
それぞれ真言僧の真雅と真済に加持祈祷させて敗れたといわれる