醍醐天皇(だいごてんのう)は、平安時代中期の第60代天皇
臣籍の身分として生まれた唯一の天皇
平安時代では最長の33年間在位した天皇
摂関を置かずに親政を行って、地方政治や制度・文化面において数々の業績を収め、「延喜の治」と称される理想的な時代とされる
醍醐天皇は、平安時代では最長の33年間在位し、摂関を置かずに親政を行って、
地方政治や制度・文化面において数々の業績を収め、「延喜の治」と称される理想的な時代とされる
第62代の村上天皇の時代とともに「延喜・天暦の治」とも称される
摂関を置かない親政でも、実際には藤原時平の政治主導によるところが大きかった
<「寛平御遺誡」>
父親 宇多天皇から与えられた、国を治めるときの心を記した伝国詔命
左大臣 藤原時平、右大臣 菅原道真とし政務の補佐をさせることが記されている
<国史「日本三代実録」>
藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平らにより編纂された歴史書
六国史の第六にあたる
清和天皇・陽成天皇・光孝天皇の3代、858年(皇紀1518)天安2年8月から887年(皇紀1547)仁和3年8月までの30年間を扱う
<「延喜格(えんぎきゃく)」>
869年(皇紀1529)貞観11年から907年(皇紀1567)延喜7年までの詔勅・太政官符のうち重要なものを選別したもの
醍醐天皇の命により編纂された
<「延喜式」>
醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始めた格式(律令の施行細則)
三代格式の一つ
<荘園整理令>
全国の荘園を一斉整理する目的で、藤原時平の尽力により施行された
<歌道>
和歌の振興に力を入れ、自身も才能に長け、勅撰集に43首が入っている
「春風の吹かぬ世にだにあらませば心のどかに花は見てまし」(続後撰和歌集)
<「古今和歌集」>
醍醐天皇の命により紀貫之紀貫之らが編纂した、日本最初の勅撰和歌集
<家集「延喜御集」>
醍醐天皇の御集(歌集)として唯一現存するもの
和歌36首、連歌2句、贈答歌が多く、半数以上が他者の歌となっている
<宸記「延喜御記(えんぎぎょき)」全20巻>
33年間にわたって記された「醍醐天皇日記」
宮中内裏の清涼殿の厨子に保管され、後の天皇の教訓の書とされた
「村上天皇日記」と合わせて「二代御記」と称される
散逸して現存しないが、諸書に引用された逸文を次代の村上天皇の宸記と併せた「延喜天暦御記抄」として伝わっている
<后妃・皇子女>
20人に近い女御・更衣を持ち、36人の皇子女をもうけた
中宮:藤原穏子(関白 藤原基経の娘)
第二皇子:保明親王(醍醐天皇皇太子)
第十四皇女:康子内親王(一品准三宮)(右大臣 藤原師輔の妻)
第十四皇子:寛明親王(朱雀天皇)
第十六皇子:成明親王(村上天皇)
妃:為子内親王(光孝天皇皇女)(宇多天皇同母妹)
第一皇女:勧子内親王(四品)
女御:源和子(光孝天皇皇女)
第四皇女:慶子内親王(敦固親王の妻)
第五皇子:常明親王(四品刑部卿)
第六皇子:式明親王(三品中務卿)
第七皇子:有明親王(三品兵部卿)
第十三皇女:韶子内親王(賀茂斎王)
第十七皇女:斉子内親王(伊勢斎宮)
女御:藤原能子(右大臣 藤原定方の娘)
女御:藤原和香子(大納言 藤原定国の娘)
更衣:源封子(源旧鑑の娘)
第二皇女:宣子内親王(賀茂斎王)
第一皇子:克明親王(三品兵部卿)
第十二皇女:靖子内親王(大納言 藤原師氏の妻)
更衣:藤原鮮子(藤原連永の娘)
第三皇女:恭子内親王(賀茂斎王)
第三皇子:代明親王(三品中務卿)
第六皇女:婉子内親王(賀茂斎王・三品)
第九皇女:敏子内親王
更衣:源昇女
第四皇子:重明親王(三品式部卿)
更衣:源周子(近江更衣)(源唱の娘)
第五皇女:勤子内親王(四品、右大臣 藤原師輔の妻)
第七皇女:都子内親王(無品)
第十皇女:雅子内親王(四品、伊勢斎宮、右大臣 藤原師輔の妻)
第十二皇子:源高明
第十八皇子:盛明親王(四品)
更衣:満子女王(相輔王の娘)
第八皇女:修子内親王(元良親王の妻)
第十一皇女:普子内親王(源清平の妻)(後に藤原俊連の妻)
更衣:藤原淑姫(参議 藤原菅根の娘)
第十一皇子:兼明親王(前中書王(一品中務卿)
第十六皇女:英子内親王
皇子:源自明
更衣:藤原桑子(楓御息所)(中納言 藤原兼輔の娘)
第十三皇子:章明親王(二品弾正尹)
更衣:中将更衣(藤原伊衡の娘)
皇子:源為明
更衣:源敏相女
皇子:源允明
更衣:源清子
更衣:藤原同子
更衣:源暖子
生母不明
皇女:源厳子
<御陵>
後山科陵(のちのやましなのみささぎ)(伏見区醍醐古道町)
公式形式は円丘
醍醐寺の管理下にあったため、平安時代の御陵としては所在が確定できる数少ないの1つ
<花山神社>
醍醐天皇の夢告に宇迦之御魂大神が現れ、勅命により、三柱が勧請され創建されたといわれる
<籠神社>
「小野道風筆額面」は、醍醐天皇の勅命により、小野道風の筆の「正一位籠之大明神」の神額を賜ったもの
<水火天満宮>
菅原道真の祟りを恐れた醍醐天皇の勅願により、水害・火災を鎮めるため、菅原道真の神霊を祀ったのが由来
<醍醐寺>
醍醐天皇が祈願寺とされて、手厚い庇護を受け、金堂(国宝)や薬師堂が御願によりに創建され、伽藍が整えられる
五重塔(国宝)は、醍醐天皇の冥福を祈るため第一皇子 朱雀天皇が、醍醐天皇の一周忌に起工した
<智恩寺>
醍醐天皇の勅により山号・寺号が与えられ、勅額を下賜されたといわれ、勅願所となって、文殊会料の荘田寄進があった
<勧修寺>
醍醐天皇が、若くして死去した生母 藤原胤子の追善のため、右大臣 藤原定方(藤原胤子の弟)に命じて、
宇治郡の大領(統治者) 宮道弥益(藤原胤子の外祖父)邸宅跡に、承俊律師を開山にして創建する
寺号は、醍醐天皇の祖父 藤原高藤の諡号をとって「勧修寺」と名付けられる
後に、醍醐天皇の勅願寺となる
<愛宕念仏寺>
鴨川の洪水で堂宇が流失し、廃寺になりかかっていたが、
醍醐天皇の勅願で、天台宗の高僧 阿闍梨伝燈大法師 千観内供により再興され、
「等覚山(とうかくざん)愛宕院(おたぎいん)」と号する延暦寺の末寺となる
<神泉苑>
「源平盛衰記」によると、神泉苑の池には野鳥が水鳥が多く棲んでいたといわれ、
醍醐天皇の宣旨に、鷺も羽をたたんでかしこまったといわれ、このとき、醍醐天皇より五位の位を賜り「五位鷺」と称された
<菅原道真の祟り>
左大臣 藤原時平、右大臣 菅原道真の両者の間に反目が生じ、
菅原道真が天皇の廃立を謀ったとの、時平の讒言を受け入れて、菅原道真を大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷する
この事件のことを「聖代の瑕」と称される
その後、藤原時平が早死にし、
中宮 藤原穏子との間の長男 皇太子 保明親王が21歳で早世する
保明親王の第一王子 慶頼王(やすよりおう)を皇太孫としたが、2年後に5歳で夭折する
一連の不幸は菅原道真の怨霊の仕業と噂され悩まされ、
菅原道真を左遷した詔を覆し、右大臣に復したうえ贈位を行ってその慰霊に努めた
宮中内裏の清涼殿に落雷し死傷者を出すという落雷事件が起き、醍醐天皇は精神的ダメージで体調を崩し、そのまま病に伏せる