村上天皇(むらかみてんのう)は、平安時代中期の第62代天皇
政治にも関心深く、摂関を置かず、親政を行い、先代の醍醐天皇に治世と併せて「延喜・天暦の治」と称される
<延喜・天暦の治>
政治にも関心深く、摂関を置かず、親政を行い、朝儀にも精通して自ら儀式書「清涼記」を撰して、良き治めをした
先代の醍醐天皇に治世と併せて「延喜・天暦の治」と称される
村上天皇は、摂関を置かず親政をしき「天暦の治」と称される
平将門と藤原純友の起こした承平天慶の乱により、朝廷の財政が逼迫し倹約に努めたといわれる
関白太政大臣 藤原忠平の私財に依存することも大きかったといわれる
藤原忠平の死後は、息子 藤原実頼が、太政官として治安維持や収取確保に努めたといわれる
後世の「枕草子」には、村上天皇を中心に政務が執行され、臣下がそれを補佐するという体制に、
理想的な親政国家の姿として記されている
<后妃・皇子女>
中宮 藤原安子(右大臣 藤原師輔の長女)
皇子:夭逝
第一皇女:承子内親王
第二皇子:憲平親王(冷泉天皇)
第四皇子:為平親王
第七皇女:輔子内親王(伊勢斎宮)
第九皇女:資子内親王
第七皇子:守平親王(円融天皇)
皇女:夭逝
第十皇女:選子内親王(大斎院)(賀茂斎王)
女御:徽子女王(斎宮女御)(式部卿 重明親王の第一王女)
第四皇女:規子内親王(伊勢斎宮)
第八皇子:即日死去
女御:荘子女王(麗景殿女御)(中務卿 代明親王の王女)
第六皇女:楽子内親王(伊勢斎宮)
第九皇子:具平親王(後中書王)
女御:藤原述子(弘徽殿女御)(左大臣 藤原実頼の三女)
女御:藤原芳子(宣耀殿女御)(大納言 藤原師尹の娘)
第六皇子:昌平親王
第十皇子:永平親王
ほか、更衣5名、後宮1名に子女多数
<御陵>
村上陵(右京区鳴滝宇多野谷)
公式形式は円丘
径24mの円墳
「日本紀略」に、山城国葛野郡田邑郷北中尾に葬られたと記されている
<醍醐寺>
父親 醍醐天皇の冥福を祈るために兄 朱雀天皇が起工
村上天皇の代の951年(皇紀1611)天暦5年に完成する
<佛陀寺>
朱雀天皇・村上天皇を開基とする勅願所だったところ
村上天皇が、兄 朱雀上皇の仙洞御所朱雀院を寺院に改め、遺志をついで別院大蔵院を建立し、
朱雀上皇の法号「仏陀寿」にちなんで「佛陀寺」と称した
本尊の脇侍 鎧観音菩薩像は、村上天皇の守護仏
<延暦寺>
瑠璃堂(重要文化財)は、村上天皇の勅命により、天台座主延昌が創建し、薬師大像・日光月光十二神将を安置したといわれる
元三大師堂(四季講堂)は、村上天皇の勅命によって、一年に渡り法華経の論経、論議が行われ「四季講堂」とも称される
<林光院>
村上天皇と紀貫之との故事にちなむ名梅「鶯宿梅(おうしゅくばい)」がある
<錦小路通>
「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」によると、
錦小路は、平安時代には「具足小路(ぐそくこうじ)」と称され、その後、転訛して「糞小路(くそこうじ)」となり、
村上天皇の勅命により、四条通をはさんでひとつ南の「綾小路」にちなんで「錦小路」に改められたと記述されている
<和歌>
960年(皇紀1620)天徳4年3月に内裏歌合「天徳歌合(てんとくうたあわせ)」を開催し、歌壇の庇護を行う
歌人としても優れていたといわれる
天暦御歌
「円居(まとゐ)してみれどもあかぬ藤浪のたたまく惜しき今日にも有るかな」(新古今和歌集)
<後撰和歌集>
村上天皇により、和歌所(わかどころ)が設置され、951年(皇紀1611)天暦5年に編纂が命じられる
<雅楽・琵琶>
第14皇子ということから、天皇に即位することは思っていなかったようで、
若い頃から雅楽など、琴や琵琶などの楽器にも精通したといわれる
<儀式書「清涼記」>
村上天皇は、朝儀にも精通して自ら儀式書を著したといわれる
<「村上天皇御記」>
949年(皇紀1609)天暦3年〜967年(皇紀1627)康保4の自著日記
「天暦御記」とも称される
<乾元大宝>
皇朝十二銭の最後となる乾元大宝(けんげんたいほう)が鋳造された
<安倍晴明>
天文得業生として、村上天皇の占いを行っていたといわれる
<皇服茶>
空也上人が村上天皇の病気退散を祈願し、お茶を奉ったところたちまち病気が治ったという
現在も、正月三が日に六波羅蜜寺で飲まれる
<ずいき祭>
村上天皇の時代に、北野天満宮に五穀豊穣を祈り、新穀・蔬菜・果物に花などを供えて神前に献上したのが由来ともいわれる
<故事「鶯宿梅(おうしゅくばい)」>
「大鏡」によると、天暦年間(947年〜957年)
御所清涼殿前の梅の木が枯れ、名梅が探され、西の京の紀貫之の娘 紀内侍の屋敷の梅が、勅命により御所に移植された
村上天皇は大変気に入ったが、その梅の枝に
「勅なればいともかしこし鶯の宿はととはばいかがこたえん」(拾遺和歌集)
(勅命とあらば大変恐れ多いことだが、もし、この紅梅に毎年巣を作るウグイスが帰ってきて、
我が家はどこへいってしまったかと尋ねられたら、私はどのように答えたらよいのでしょう)と記された短冊が吊るされていた
その梅の木は、紀貫之が手入れしていた父親の形見で、その梅の木との別れを惜しんだ歌であることを知った村上天皇は、
この梅の木をもとの庭に返されたといわれる
現在も、その梅の木は、紀貫之屋敷跡に林光院が創建され残されている