円融天皇(えんゆうてんのう)は、平安時代中期の第64代天皇
同母兄 第63代 冷泉天皇の皇太弟となり在位2年で譲位されて、11歳で即位する
26歳のとき、息子 懐仁親王の立太子を条件にして、兄 冷泉上皇の皇子 花山天皇に譲位し、太上天皇となる
藤原氏同士の政権争いが絶えず、
藤原実頼(さねより)、藤原伊尹(これただ)、藤原兼通(かねみち)、藤原頼忠(よりただ)らが摂政を行った
和歌を愛好し、「拾遺和歌集」以下の勅撰集に24首入集されている
「春日野に多くの年はつみつれど老いせぬ物は若菜なりけり」(拾遺和歌集)
<歌集「円融院御集」>
<八坂神社御旅所>
東洞院高辻の秦助正(はたすけまさ)の夢に神人が現れて、「汝の家を影向の地とせん速やかに朝廷に奏上せよ」との宣託があり、
翌朝、庭の塚から蜘蛛の糸が祇園社まで続いていたといわれる
円融天皇も、同じ夢託を受け、秦助正の家を御旅所とし、東洞院方四町を敷地として与え、神殿を造らせ「大政所」と称したといわれる
<堀河天皇里内裏跡>
藤原兼道の娘 詮子が円融天皇の中宮であったため、円融上皇の御所(里内裏)となる
<大雲寺>
円融天皇の御願寺・勅願寺となる
円融天皇が行幸されたときに、山の頂上に紫雲棚が引いたことから霊地とされ「大雲寺」と改称された
<遍照寺>
宇多天皇の孫 寛朝僧正(かんちょうそうじょう)が、円融上皇の御願により、広沢池畔の山荘を改めて寺院にしたのが由来
<龍安寺>
鏡容池(きょうようち)は、円融天皇の御願寺である円融寺の跡地にあたり、その園池といわれる
<善想寺>
境内は、関白太政大臣 藤原頼忠の邸宅があった場所にあたり、
内裏の火災のときに、円融天皇が一時里内裏にされ、譲位後に居所とされ「四条後院」と称された
<御陵(みささぎ)>
後村上陵(右京区宇多野福王子町)
宮内庁上の形式:円丘
遺体は、円融寺の北原で火葬にされ、父親 村上天皇の御陵の傍らに遺骨が納められた
<円融院火葬塚>
龍安寺の裏の朱山にある