一条天皇(いちじょうてんのう)は、平安時代中期の第66代天皇
在位25年は、平安時代では醍醐天皇に次ぐ長さ
在位は中は、藤原道長など藤原家の全盛時代、宮廷女流文学の最盛期にあたる
在位25年間は、平安時代では醍醐天皇に次ぐ長さ
人柄は温和で好学だったといい、多くの人に慕われたといわれる
<藤原家>
藤原兼家と息子たちの藤原道隆・藤原道兼・藤原道長のもとで、藤原家の権勢が最盛に達した時代
<平安女流文学>
2人の皇后の皇后宮 藤原定子に仕える清少納言や、中宮 藤原彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって
平安女流文学が花開いた
一条天皇自身も、文芸に深い関心を示し、「本朝文粋」などに詩文を残している
音楽にも堪能で、笛に優れていたといわれる
<日記「一条天皇宸記」>
寛弘年間(1004年〜1012年)の日記の存在があるが、内容は伝わっていない
<歌道>
「野べまでに心一つは通へどもわが御幸(みゆき)とは知らずやありけむ」(後拾遺和歌集)
辞世の歌
「露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」(御堂関白記)
<后妃・皇子女>
皇后:藤原定子(中宮、後に皇后宮)(関白 藤原道隆の長女)
第一皇女:脩子内親王(一品准三宮)
第一皇子:敦康親王(一品式部卿)
第二皇女:び子内親王(東三条院の養女)
皇后:藤原彰子(中宮)(上東門院)(左大臣 藤原道長の長女)
第二皇子:敦成親王(後一条天皇)
第三皇子:敦良親王(後朱雀天皇)
女御:藤原義子(内大臣 藤原公季の長女)
女御:藤原元子(右大臣 藤原顕光の長女)(後に源頼定の妻)
女御:藤原尊子(関白 藤原道兼の娘)(後に藤原通任の妻)
御匣殿(藤原道隆の四女)(皇后定子の同母妹)
<御陵>
圓融寺北陵(えんゆうじのきたのみささぎ)
圓融寺の跡地に創建された龍安寺内にある
一条天皇は生前、円融天皇の隣に土葬されることを望まれており、藤原道長により、遺骨が円融寺に納めたといわれる
<北野天満宮>
一条天皇の勅命により、菅原道真を祀る勅祭「北野祭」が行われ、「北野天満宮」の勅号を賜る
<今宮神社>
一条天皇により、船岡山に、都の疫病鎮護のために御輿が造営され、官祭「紫野御霊会」が行われたのが由来
<石清水八幡宮>
一ノ鳥居の本来の扁額は、長徳年間(995年〜999年)に、一条天皇の勅額で、平安の三蹟とされる藤原行成の筆のもの
<松尾大社>
1004年(皇紀1664)寛弘元年の一条天皇の行幸以来、たびたび天皇が行幸されるようになる
<晴明神社>
一条天皇の勅命によって、安倍晴明の屋敷跡に御霊を祀った祠が創建される
<吉田神社>
一条天皇が行幸され、朝廷からの崇拝も受けた
<龍安寺>
龍安寺の背後の天皇陵墓には、一条天皇など5人の天皇の陵墓がある
<行願寺>
一条天皇の勅願により創建され、藤原行成により扁額が記されたといわれる
<遍照寺>
一条天皇の勅命により、寛朝僧正が、六大寺の僧を東大寺大仏殿に集め降雨の祈願をしたところ、
翌日の夕刻に、奈良大仏殿に大雨が降ったといわれる
<清閑寺>
一条天皇の勅願寺となる
<随心院>
弘法大師の8代目の弟子 仁海僧正(にんがいそうじょう)が、一条天皇よりこの地を賜り、
牛皮曼荼羅を祀って、牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひざんまんだらじ)を創始したのが由来
<桂川>
一条天皇が舟遊びするなど皇室・貴族の遊覧地となっていた
<五位猫>
大変な愛猫家
愛猫を「命婦のおとど」と名付け、五位の位階を与えたといわれる
<安倍晴明>
一条天皇の時に天文博士となる
一条天皇に仕えていたとき85歳で死去する
<藤原行成>
恪勤精励をもって一条天皇、執政 藤原道長の両方に信任されたといわれ、一条天皇の四納言の一人とされる
能書家として三蹟の一人とされる
一条天皇の中宮 上東門院(藤原道長の娘)を、一帝二后という前例がない中、天皇を説得して皇后にすることに貢献した
<慈恵大師 良源>
一条天皇より「慈恵大師」の諡号を賜る