後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)は、平安時代後期の第70代天皇
母親の兄 藤原頼通が、先帝時代につづき関白を務め、藤原氏の全盛期となった
浄土思想が盛んになり、宇治に平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)が建立された
3人が同時に皇后となられ「三后並立」と称されるが、皇子には恵まれなかった
<三后並立>
藤原氏出身の章子内親王・藤原寛子・歓子の3人が同時に皇后となられた
後の鳥羽天皇や二条天皇、後堀河天皇にも、中宮・皇后となった后妃が3人いたが、
同時期に3人の后が並立したのは後冷泉天皇が唯一
いづれも、皇嗣となる皇子には恵まれなかった
章子内親王は、後一条天皇第一皇女で、東宮時代からの妃
藤原寛子は、関白 藤原頼通の長女
通常ならば、先立の中宮 章子を皇后宮、寛子を中宮とするところを、
章子の希望で、章子は中宮のままとされ、寛子が皇后宮とされた
藤原歓子は、関白となった藤原教通の三女
中宮 章子が皇太后、皇后宮 寛子が中宮とされ、歓子は皇后宮とされた
<後拾遺和歌集>
「岩まより流るる水は早けれどうつれる月の影ぞのどけき」
<金葉集>
<新古今和歌集>
<日記「後冷泉院御記」>
<錦小路通>
「京の台所」と称される京都きっての市場となっている東西約400mのアーケード石畳の狭い通り
「掌中歴」によると、後冷泉天皇の宣旨によって「具足小路(ぐそくこうじ)」から「錦小路(にしきこうじ)」に改名されたといわれる
<圓教寺陵(えんきょうじのみささぎ)>
右京区竜安寺朱山の龍安寺
宮内庁により龍安寺内にある圓教寺陵に治定されている
宮内庁上の形式は円丘
<後冷泉天皇 火葬塚>
千本北大路の交差点の北東
円墳になっており、西面して、西側に拝所、石段が設けられている
蓮台野と称された葬送地が広がるところで、後冷泉天皇は船岡の西野(にしの)で火葬された
遺骨は仁和寺内の円教寺(えんきょうじ)に納骨された
火葬塚も陵墓に準じるものと考えられていた
火葬地の施設を取り除いた後、土を盛り、石卒都婆を立て、釘貫(くぎぬき)を建て四面に溝が掘られた