二条天皇(にじょうてんのう)は、平安時代末期の第代78天皇
美福門院に育てられ、後白河上皇院政派と対立する
愚昧とされた父親 後白河天皇とは対照的に、「末の世の賢王におはします」と賞賛された
母親は、出産直後に急死したため、祖父である鳥羽法皇の皇后 美福門院に養育され、父親 後白河天皇とは疎遠だった
美福門院の強い要望で、後白河天皇からの譲位を受け即位する
表面的には「院・内申シ合ツツ同ジ御心ニテ」との二頭政治が行われるが、親政を行おうとして、後白河院政派とは対立する
<二条天皇親政派>
藤原伊通(美福門院の従兄弟)
大炊御門経宗(二条天皇生母 大炊御門懿子の弟)
葉室惟方(二条天皇乳母 俊子の子)
公卿 三条公教
中立だった平清盛を、平治の乱では三条公教が味方につける
武士 源頼政も、平治の乱から仕える
<和歌>
争乱によって衰微していた歌壇を復興
1159年(皇紀1819)保元4年
内裏歌会を再開させる
歌壇では六条藤家の藤原清輔を重用した
「続詞花和歌集」を編纂させる
<御陵>
二条天皇香隆寺陵
二条天皇は、香隆寺の東北の野で火葬にされた
遺骨は、一時的に、香隆寺本堂に納められた
現在の等持院の北にあった
堀河天皇や後朱雀天皇の火葬も行われ、白河天皇なども遺骨が仮安置された
付近一帯は、皇室の荼毘所になっていた
<賀茂斎院>
皇女の1人が斎王になっている
32代 1169年〜1171年 第一皇女 善子内親王
<鵺退治の伝説>
源頼政
応保年間(1161年〜1162年)
二条天皇をおびえさせた怪鳥を退治したといわれる