高倉天皇(たかくらてんのう)は、平安時代末期の第80代天皇
後白河上皇が院政を復活させようとする策略に翻弄された
6歳のときに譲位を受けて即位し、19歳で譲位することになり、20歳で病気で崩御される
学問・詩歌・音楽に優れ、寛大で温情ある性格であったといわれる
特に、笛の名手といわれた
「薄霧の 立ちまふ山のもみぢ葉は さやかならねど それとみえけり」(新古今和歌集)
<御陵>
高倉天皇 後清閑寺陵
清閑寺の北にあり、上段には隣接して六條天皇清閑寺陵がある
<清閑寺>
崩御された夜に、遺言により、清閑寺法華堂に奉葬された
<東三条殿跡>
1166年(皇紀1826)仁安元年12月
皇太子 憲仁親王(後の高倉天皇)の御所だったところで、火災で焼失し、以後、再建されずに荒廃した
<閑院跡・閑院内裏址>
大内裏が荒廃し、
後三条天皇・堀河天皇・高倉天皇・後鳥羽天皇などの里内裏として使われた
<土御門東洞院殿>
1177年(皇紀1837)安元3年4月28日亥の刻(午後10時頃)
安元の大火により、皇居としていた閑院にも火が迫り、
高倉天皇と中宮 建礼門院は、正親町東洞院にある藤原邦綱邸(土御門東洞院殿)に避難して、
一時期、里内裏として用いられた
<大将軍八神社>
<新熊野神社>
<熊野神社>
<熊野若王子神社>
<岡崎神社>
1178年(皇紀1838)治承2年
高倉天皇の中宮 建礼門院の安産祈願のために奉幣使が41社に参向した
<三嶋神社>
1161年(皇紀1821)応保元年9月
後白河天皇の中宮 建春門院(平滋子)が、皇子がいなく三島神社に祈願され、憲仁親王(後の高倉天皇)を出産される
<仁和寺>
高倉天皇宸翰消息(国宝)を所蔵する
1178年(皇紀1838)治承2年
高倉天皇の18歳の筆で、若くして崩御された高倉天皇の現存する唯一の遺筆
守覚法親王の孔雀経修法による祈願によって、中宮 建礼門院が無事に皇子(後の安徳天皇)を出産したことに対する御礼状
<琴きき橋跡>
嵐山 渡月橋の北詰東側の土手にたつ石碑
「平家物語」巻六や、能「小督(こごう)」にも記されている第80代 高倉天皇とその寵姫 小督局の恋愛物語にちなむところ
<因幡薬師堂 平等寺>
1171年(皇紀1831)承安元年4月
高倉天皇より、「平等寺」と命名され、その勅額を賜る
「毛髪織込光明真言」は、小督局の髪の毛で作ったと伝えられる光明真言の織物で、
高倉天皇との情愛がこめ込められたものといわれる
<斎王>
1178年(皇紀1838)治承2年から1181年(皇紀1841)治承5年
高倉天皇 皇女 範子内親王(坊門院)が第34代を務めた