高倉天皇(たかくらてんのう) 京都通メンバ
平安時代末期の第80代天皇

生年:1161年(皇紀1821)応保元年9月3日
崩御:1181年(皇紀1841)治承5年1月14日
宝算:21

父親:第77代 後白河天皇
第7皇子
母親:皇太后 平滋子(建春門院)

諱:憲仁(のりひと)

立太子:1166年(皇紀1826)仁安元年10月10日

即位:1168年(皇紀1828)仁安3年2月19日
退位:1180年(皇紀1840)治承4年2月21日

元号:仁安・嘉応・承安・安元・治承

皇居:閑院・五条東洞院殿など

先代:甥 六条天皇
次代:第一皇子 安徳天皇

中宮:平徳子建礼門院
皇子女:安徳天皇・守貞親王・後鳥羽天皇ほか
異母姉:式子内親王

別称:高倉院

陵墓:後清閑寺陵

 高倉天皇(たかくらてんのう)は、平安時代末期の第80代天皇

 後白河上皇が院政を復活させようとする策略に翻弄された

 6歳のときに譲位を受けて即位し、19歳で譲位することになり、20歳で病気で崩御される

【高倉天皇の歴史・経緯】



【高倉天皇】

 学問・詩歌・音楽に優れ、寛大で温情ある性格であったといわれる

 特に、笛の名手といわれた

 「薄霧の 立ちまふ山のもみぢ葉は さやかならねど それとみえけり」(新古今和歌集

【高倉天皇ゆかりの地】

 <御陵>
 高倉天皇 後清閑寺陵
 清閑寺の北にあり、上段には隣接して六條天皇清閑寺陵がある

 <清閑寺
 崩御された夜に、遺言により、清閑寺法華堂に奉葬された


 <東三条殿跡
 1166年(皇紀1826)仁安元年12月
 皇太子 憲仁親王(後の高倉天皇)の御所だったところで、火災で焼失し、以後、再建されずに荒廃した

 <閑院跡閑院内裏址
 大内裏が荒廃し、
 後三条天皇・堀河天皇・高倉天皇・後鳥羽天皇などの里内裏として使われた


 <土御門東洞院殿
 1177年(皇紀1837)安元3年4月28日亥の刻(午後10時頃)
 安元の大火により、皇居としていた閑院にも火が迫り、
 高倉天皇と中宮 建礼門院は、正親町東洞院にある藤原邦綱邸(土御門東洞院殿)に避難して、
 一時期、里内裏として用いられた


 <大将軍八神社
 <新熊野神社
 <熊野神社
 <熊野若王子神社
 <岡崎神社
 1178年(皇紀1838)治承2年
 高倉天皇の中宮 建礼門院の安産祈願のために奉幣使が41社に参向した


 <三嶋神社
 1161年(皇紀1821)応保元年9月
 後白河天皇の中宮 建春門院(平滋子)が、皇子がいなく三島神社に祈願され、憲仁親王(後の高倉天皇)を出産される


 <仁和寺
 高倉天皇宸翰消息(国宝)を所蔵する
 1178年(皇紀1838)治承2年
 高倉天皇の18歳の筆で、若くして崩御された高倉天皇の現存する唯一の遺筆
 守覚法親王の孔雀経修法による祈願によって、中宮 建礼門院が無事に皇子(後の安徳天皇)を出産したことに対する御礼状


 <琴きき橋跡
 嵐山 渡月橋の北詰東側の土手にたつ石碑
 「平家物語」巻六や、「小督(こごう)」にも記されている第80代 高倉天皇とその寵姫 小督局の恋愛物語にちなむところ


 <因幡薬師堂 平等寺
 1171年(皇紀1831)承安元年4月
 高倉天皇より、「平等寺」と命名され、その勅額を賜る
 「毛髪織込光明真言」は、小督局の髪の毛で作ったと伝えられる光明真言の織物で、
高倉天皇との情愛がこめ込められたものといわれる

【その他】

 <斎王
 1178年(皇紀1838)治承2年から1181年(皇紀1841)治承5年
 高倉天皇 皇女 範子内親王(坊門院)が第34代を務めた


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