後嵯峨天皇(ごさがてんのう)は、鎌倉時代中期の第88代天皇
土御門天皇の第三皇子で、承久の乱に消極的だったことから、鎌倉幕府執権 北条泰時らに擁立されて天皇となる
崩御の後の、第3皇子 後深草天皇の血統の持明院統と、第7皇子 亀山天皇の大覚寺統ととの皇位争いが
南北朝対立の原因となる
第88代 後嵯峨天皇は、在位4年で、第3皇子の久仁親王(第89代 後深草天皇)に譲位し、院政を開始する
後深草天皇に対し、後深草天皇の弟 第7皇子の恒仁親王(第90代 亀山天皇)への譲位を促し、
亀山天皇の皇子である世仁親王(後の第91代 後宇多天皇)を皇太子にする
崩御される直前に「将来の皇位は後深草・亀山両流のいずれとも定めず幕府の推挙に任せる」と遺言を残し、
これが、大きな火種となり、南北朝対立の原因となる
このことで、後深草上皇は、無念さで出家してしまう
亀山上皇は、事態を収めるために、後深草上皇の皇子 煕仁親王を自分の猶子とし皇太子に立て、後の第92代 伏見天皇とさす
<持明院統(じみょういんとう)>
第3皇子 第89代 後深草天皇の血統
後の北朝
第92代 伏見天皇
<大覚寺統(だいかくじとう)>
第7皇子 第90代 亀山天皇の血統
後の南朝
第91代 後宇多天皇
<直系>
中宮:西園寺きつ子(大宮院)(西園寺実氏の長女)
第3皇子 久仁親王(第89代 後深草天皇)
綜子内親王(月華門院)
第7皇子 恒仁親王(第90代 亀山天皇)
雅尊親王
貞良親王
皇女
女院:體子内親王(神仙門院)(後堀河天皇の皇女となる)
皇女
宮人:西園寺公子(大納言三位局)(西園寺公経の娘)(中宮 西園寺きつ子の叔母)
慈助法親王(天台座主)
悦子内親王(延政門院)
典侍(准三后):平棟子(大納言二位局)(平棟基の娘)
宗尊親王(鎌倉幕府第6代将軍)
掌侍:藤原博子(勾当内侍)(後坊門局)(藤原孝時の娘)
覚助法親王(四天王寺別当・園城寺長吏)
懌子内親王(五条院)
皇女(柳殿)
宮人:藤原藤子(按察三位局)(四条隆衡の娘)
最助法親王(天台座主)
宮人:藤原氏(御匣殿)(三条公房の娘)
忠助法親王(園城寺長吏・聖護院)
性助法親王(仁和寺)
宮人:藤原氏(姉小路実世の娘)
浄助法親王(円満院)
宮人:藤原氏(右衛門督局)(一条能保の娘)
円助法親王(円満院)
宮人:藤原氏(二条局)(大友親秀の娘)
愷子内親王(伊勢斎宮)
宮人:藤原氏(一条殿局)(法眼証円の娘)
仁恵法親王(法住寺)
宮人:源氏(大納言局)(中院通方の娘)
皇子
宮人:藤原氏(九条良平の娘)
宮人:源氏(源頼政の曾孫)
勝助(仁和寺)
宮人:藤原氏某
高峰顕日(建長寺)
<御陵>
天龍寺内にある嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ)
公式形式は方形堂
亀山天皇の御陵と同じ場所で、同形式の檜皮葺、宝形造の法華堂が並ぶ
かつて「浄金剛院法華堂」と称されていた
<大覚寺>
後嵯峨上皇、亀山上皇、後宇多法皇が入山して「大覚寺統(南朝)」を形成し、ここで院政を行ったため「嵯峨御所」とも称される
<天龍寺>
荒廃していた檀林寺の地に、後嵯峨天皇とその皇子である亀山天皇が離宮を営み「亀山殿」と称した
<車折神社>
後嵯峨天皇が、嵐山に遊行したときに、車折神社の前で牛車の轅が折れ動かなくなったことで、
門前右側の石を「車折石(くるまざきのいし)」と称されて、正一位車折大明神の神階を賜ったといわれる
<猿田彦神社>
後嵯峨天皇が行幸されたときに、猿田彦大神が道案内をしたため、後嵯峨天皇が社殿を建立したといわれる
<仁和寺>
後嵯峨天皇の確証ある遺筆として唯一のものといわれる後嵯峨天皇宸翰消息(国宝)を所蔵している
<三十三間堂>
現存している唯一の本堂は、後嵯峨上皇により再建されたも
<新善光寺>
後嵯峨天皇が、長野県 善光寺の阿弥陀如来を模刻させた阿弥陀如来像を所蔵している
<二尊院>
境内の奥にある三帝陵には、土御門天皇・後嵯峨天皇・亀山天皇の分骨が安置されている
<京都府立嵐山公園亀山地区(亀山公園)>
西側は、保津峡や嵯峨野トロッコ列車を見渡せる眺望地
東側は、後嵯峨天皇・亀山天皇・後伏見天皇の三天皇火葬塚がある
<和歌>
和歌に優れ、「続後撰集」など多くの勅撰集に歌が収められている
藤原基家、藤原為家らに命じて「続古今和歌集」を撰ばせた
<油座>
後嵯峨上皇の院宣により、大山崎の神人による荏胡麻油等の専売権が保障されたといわれる