後水尾天皇(ごみずのおてんのう)は、江戸時代初期の天皇で、
江戸幕府の朝廷を圧迫する政策に反発して、突然、譲位し、4代の天皇の間、院政を行った
修学院離宮を自ら造営し、学問・詩歌・茶道・華道などに通じ、当時の文化の中心ともなる
<修学院離宮>
1655年(皇紀2315)明暦元年
後水尾上皇は、第一皇女 梅宮(円照寺尼宮)が修学院村に営む草庵を訪れたとき、
その草庵に近い後水尾上皇の御茶屋「隣雲亭(りんうんてい)」に山荘の造営を開始する
1659年(皇紀2319)万治2年
ほぼ完成を迎える
後水尾上皇は、女中に変装して輿に乗り、造営中の離宮を訪れて造営の指図を自ら行ったといわれる
1664年(皇紀2324)寛文4年
「修学院焼」と称される御庭焼(おにわやき)の窯開きが行われる
この窯で、後水尾上皇の好みの作品を焼かせたといわれる
<御陵>
泉涌寺境内の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られる
<後水尾天皇髪歯塚>
相国寺境内
後水尾天皇の毛髪や歯を納められている塚が現存する
<清浄華院>
後陽成天皇、後水尾天皇、孝明天皇等の皇子・皇女の御陵墓、各宮家の墓がある
宮内庁が所管してる
<大原野神社>
後水尾天皇が、応仁の乱で荒廃した社殿を再建された
<二条城>
1626年(皇紀2286)寛永3年9月6日から5日間に渡って
後水尾天皇の二条城への行幸が行われ、その間、舞楽・能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された
行幸に先立ち、二条城二の丸御殿(国宝)の大改修が行われた
<円通寺(えんつうじ)>
後水尾上皇が、比叡山の借景を得るために、各所をまわってようやくこの地を探し当てたといわれる、幡枝の離宮跡に建つ
<常照皇寺>
「御車返しの桜」
岩倉具視が、御所紫宸殿の「左近の桜」より株分けしたもので、後水尾天皇が名命したといわれる名樹
<霊鑑寺>
1654年(皇紀2314)承応3年
後水尾上皇が、円成寺跡に、皇女 多利宮(たりのみや)浄法身院宮宗澄(じょうほっしんいんのみやしゅうちょう)を開基として、
天台宗の寺院として、鹿ヶ谷の渓流に沿った地に創建する
後水尾上皇御遺愛の日光椿、散椿(ちりつばき)がある
<金閣寺>
「茶室 夕佳亭」
後水尾上皇のために、鳳林承章が、金森宗和に造らせたといわれる
「胡蝶侘(こちょうわびすけ)」
方丈前庭に立つ椿の一種で、後水尾天皇の御手植えといわれる
<立花>
後水尾天皇は、立花好きでもあり、親王や側近の公家達と、たびたび立花御会を催され、
池坊専好を宮中に召し指導を受けたといわれる
1629年(皇紀2289)寛永6年
後水尾天皇は、公家・僧侶・町人までを参加させた宮中立花会を催し、立花の普及に一役を担った