後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)

平安時代後期の第70代天皇

生年:1025年(皇紀1685)万寿2年8月3日
没年:1068年(皇紀1728)治暦4年4月19日
宝算:44

即位:1045年(皇紀1705)寛徳2年1月16日
退位:1068年(皇紀1728)治暦4年4月19日

後朱雀天皇の第一皇子
母親:藤原嬉子(ふじわらのきし)(贈皇太后)(藤原道長の娘)
乳母:大弐三位(紫式部の娘)

諱:親仁(ちかひと)

皇后:三后並立:章子内親王(後一条天皇第一皇女)・藤原寛子(関白藤原頼通長女)・藤原歓子(関白藤原教通三女)

在位中の元号:寛徳・永承・天喜・康平・治暦

陵墓:円教寺陵(えんきょうじのみささぎ)

 後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)は、平安時代後期の第70代天皇

 母親の兄 藤原頼通が、先帝時代につづき関白を務め、藤原氏の全盛期となった

 浄土思想が盛んになり、宇治に平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)が建立された

 3人が同時に皇后となられ「三后並立」と称されるが、皇子には恵まれなかった

【後冷泉天皇の歴史・経緯】

【後冷泉天皇】

 <三后並立>
 藤原氏出身の章子内親王・藤原寛子・歓子の3人が同時に皇后となられた

 後の鳥羽天皇や二条天皇、後堀河天皇にも、中宮・皇后となった后妃が3人いたが、
同時期に3人の后が並立したのは後冷泉天皇が唯一

 いづれも、皇嗣となる皇子には恵まれなかった


 章子内親王は、後一条天皇第一皇女で、東宮時代からの妃

 藤原寛子は、関白 藤原頼通の長女
 通常ならば、先立の中宮 章子を皇后宮、寛子を中宮とするところを、
章子の希望で、章子は中宮のままとされ、寛子が皇后宮とされた

 藤原歓子は、関白となった藤原教通の三女
 中宮 章子が皇太后、皇后宮 寛子が中宮とされ、歓子は皇后宮とされた


 <後拾遺和歌集>
 「岩まより流るる水は早けれどうつれる月の影ぞのどけき」

 <金葉集>
 <新古今和歌集

 <日記「後冷泉院御記」>


 <錦小路通
 「京の台所」と称される京都きっての市場となっている東西約400mのアーケード石畳の狭い通り
 「掌中歴」によると、後冷泉天皇の宣旨によって「具足小路(ぐそくこうじ)」から「錦小路(にしきこうじ)」に改名されたといわれる

【後冷泉天皇の御陵】

 <圓教寺陵(えんきょうじのみささぎ)>
 右京区竜安寺朱山の龍安寺
 宮内庁により龍安寺内にある圓教寺陵に治定されている
 宮内庁上の形式は円丘


 <後冷泉天皇 火葬塚
 千本北大路の交差点の北東
 円墳になっており、西面して、西側に拝所、石段が設けられている
 蓮台野と称された葬送地が広がるところで、後冷泉天皇は船岡の西野(にしの)で火葬された
 遺骨は仁和寺内の円教寺(えんきょうじ)に納骨された

 火葬塚も陵墓に準じるものと考えられていた
 火葬地の施設を取り除いた後、土を盛り、石卒都婆を立て、釘貫(くぎぬき)を建て四面に溝が掘られた


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