堀河天皇(ほりかわてんのう)は、平安時代後期の第73代天皇
堀河天皇は「末代の賢王」といわれる賢帝とされる
後に、白河法皇が院で政務を執ったことが、院政の始まりといわれる
堀河天皇の性格は上品かつ優雅であり、誠実な人柄で、人望を集めたといわれる
<末代の賢王>
堀河天皇は「末代の賢王」といわれる賢帝とされる
堀河天皇が元服したときに、関白が藤原師通に代わり、
藤原師通は、白河上皇の政治関与に批判的で、自ら政務を執ろうとする堀河天皇に協力的であり、
藤原通俊、大江匡房らに補佐されて、親政に安定した政治状態になり、「天が下治まりて、民安く世のどかなり」といわれた
その後、関白 藤原師通が死去し、堀河天皇は、白河法皇に政務を相談せざるを得なくなり、
白河法皇の政務への関与が再び強まり院政が成立する
院政が始まると、中宮 篤子内親王の影響もあって、情熱を趣味に傾けるようになり
学問・和歌・音楽、特に管弦を愛好し才能を発揮して、廷臣らに慕われたといわれる
<歌道>
和歌にも優れていた
源国信、藤原俊忠、源俊頼らの歌人たちと文芸性を重視した「堀河院歌壇」と称された
1102年(皇紀1762)康和4年
歌人たちに恋の歌を詠ませた「堀河院艶書合」を開催する
当時評判が高かった歌人14名に、100首の和歌を詠ませた「堀河百首」を編んでいる
堀河天皇も和歌にも優れ、勅撰和歌集には「金葉和歌集」などに9首が入集されている
「世世ふれど面がはりせぬ河竹は流れてのよのためしなりけり」(金葉和歌集)
<后妃・皇子女>
中宮:篤子内親王(後三条天皇の第四皇女)
叔母で19歳年上で、皇子女は誕生しなかった
女御(贈皇太后):藤原苡子(藤原実季の娘)(宗仁親王を産んでまもなく死去)
宗仁親王(鳥羽天皇)
典侍:仁子女王(康資王の娘)
そう子内親王(大宮斎院)(賀茂斎王)
典侍:藤原宗子(藤原隆宗の娘)(後に藤原家保の妻)
寛暁(大僧正)
藤原時経の娘
最雲法親王(天台座主)
生母未詳
懐子内親王
喜子内親王(伊勢斎宮)
<御陵>
後圓教寺陵(のちのえんきょうじのみささぎ)
龍安寺の背後にある天皇陵墓にある
公式形式は円丘
<堀河天皇里内裏跡>
堀河院(堀川殿)は、平安京左京三条二坊九町から十町にかけてあった最初の関白 藤原基経が造営した大邸宅
(現在の二条通と堀川通によって画された東西120m、南北250m程)
堀河天皇が、 1086年(皇紀1746)応徳3年頃から住まわれ、成長・受禅・崩御された堀河院(堀川殿)の里内裏
<土御門東洞院殿>
1086年(皇紀1746)応徳3年以前
堀河天皇が、即位前に御所として用いていたといわれる
<尊勝寺跡>
六勝寺の一つで堀河天皇の勅願寺
<賀茂競馬会神事>
1093年(皇紀1753)寛治7年
堀河天皇が宮中武徳殿の式を移し、五穀豊穣の祈願のために始められたのが由来