継体天皇(けいたいてんのう)は、古墳時代の第26代天皇
第15代応神天皇の5世孫(曾孫の孫)
先代 武烈天皇の近親に皇子がいなく崩御され、群臣達により、越前地方を治めていた男大迹王が即位することとなる
朝鮮半島において、任那4県の割譲などが行われ、新羅・百済に侵攻されるなど、日本の勢力が衰えてきた
九州北部で、磐井の乱が起こるなど、地方の政治権力が台頭してきた
<百済の支援>
百済から任那の四県の割譲を請われ、大伴金村の意見によって任那四県を百済に割譲したとされる
百済が新羅や高句麗から攻められるたびに、倭国へ軍事支援が要請され、
近江毛野(おうみのけの)を派遣するなど応じている
<石山開発の祖>
福井県の笏谷石(しやくだにいし)産地の山石屋たちは、継体天皇を石山開発の祖とする
継体天皇から、石材採掘免許状を賜ったと伝え、笏谷石の採掘権は明治維新まで独占したといわれる
<皇后>
皇后:手白香皇女(たしらかのひめみこ)(仁賢天皇の皇女)
即位にあたり皇后とした
皇子: 天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと)(欽明天皇)
<妃>
目子媛(めのこひめ)(尾張連草香の娘)
越前時代の妻
皇子: 勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)(安閑天皇)
檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)(宣化天皇)
<漢風諡号「継体天皇」>
淡海三船により、代々の天皇とともに、熟語の「継体持統」から名付けられたといわれる
<御陵(みささぎ)>
三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ)(大阪府茨木市太田3丁目)
宮内庁上の形式:前方後円
遺跡名:太田茶臼山古墳
前方後円墳、墳丘長227m
築造時期は5世紀中頃とされている
<今城塚古墳>
大阪府高槻市郡家新町
前方後円墳、墳丘長190m
築造時期は6世紀前半とされ、歴史学界では同古墳が継体天皇陵とするのが定説となっている
1997年(皇紀2657)平成9年、発掘調査が行われる
家型石棺の破片と見られる石片が3種類確認されている
2011年(皇紀2671)平成23年4月1日
高槻市教育委員会にて史跡公園として整備され、
隣接する今城塚古代歴史館では、日本最大級の家型埴輪等が復元展示されている
<越前開闢の御祖神>
母親 振姫の故郷である越前国高向(たかむく)(現在の福井県坂井市丸岡町高椋)に移り住み
統治していた越前地方は、かつて、湿原が広がり農耕や居住に適さない土地であった
九頭竜川・足羽川・日野川の三大河川を造り、湿原の干拓をして大規模な治水を行い、実り豊かな土地とする
港を開き、水運を発展させ、稲作、養蚕、採石、製紙などの産業を発達させた
天皇即位のため越前を離れることになったとき、
足羽神社に、自らの御生霊を鎮めて、御子の馬来田皇女(うまくだのひめみこ)を斎主としたといわれる
<能「花筐」>
即位のために上京するとき、寵愛の照日(シテ)に手紙と花篭を形見として贈った
照日は、君を慕い、侍女とともに狂女の姿となって都へ追う
紅葉見物の行幸の列の前に現われた照日は、帝の従者(ワキ)に篭を打ち落されて狂い、漢の武帝と李夫人の物語を舞う
やがて帝は、以前照日に渡した花篭であると気づき、再び召されて都に連れ帰った
後に二人の間の子が安閑天皇となる