欽明天皇(きんめいてんのう)

欽明天皇(きんめいてんのう)は、古墳時代の第29代天皇

生年:509年(皇紀1169)継体天皇3年
没年:571年(皇紀1231)欽明天皇32年4月15日
宝年:63

即位:539年(皇紀1199)宣化天皇4年12月5日
退位:571年(皇紀1231)欽明天皇32年4月15日

父親:継体天皇
母親:手白香皇女(たしらかのひめみこ)(仁賢天皇の皇女)

和風諡号:天国押波流岐広庭天皇(あめくにおしはるきひろにわのすめらみこと)・
     天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)
別名:志帰嶋天皇(しきしまのすめらみこと)・斯帰斯麻天皇(しきしまのすめらみこと)

先代:宣化天皇(父親 継体天皇の第二皇子)
次代:敏達天皇(欽明天皇の第二皇子)

御陵:檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)(奈良県明日香村)

 欽明天皇(きんめいてんのう)は、古墳時代の第29代天皇

 朝鮮半島の百済より仏教が伝来し、任那が滅亡した時代

【欽明天皇の歴史・経緯】

【欽明天皇】

 <都>
 磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)を都とする

 <任那日本府>
 朝鮮半島において、伽耶(みまな)諸国に侵入しようとする新羅(しらぎ)に対し、
 勢力拡大をめざしていた百済が、日本(倭国)の支援を得て新羅の侵入を阻止しようとした

 百済の聖明王(せいめいおう)と、任那諸国の復興について協議が続けられていた

 新羅との戦で聖明王が亡くなり、新羅軍が勢いづき、任那を滅ぼしてしまう

 欽明天皇は、崩御されるまで、新羅を討って任那を復興するよう遺詔した


 <伝来>
 欽明天皇に百済の聖明王が、仏像経論を献じたのが、仏教の最初の渡来とされる

 釈迦仏や五経博士、経論などの伝来、技術者の渡来など、日本へ与えた影響は大きい

 崇仏(すうぶつ)の是非をめぐって、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で対立が起こる


 <子孫>
 宣化天皇の皇女 石姫を皇后として敏達天皇を
 蘇我稲目の娘 堅塩媛(きたしひめ)を妃として用明天皇、推古天皇
 その同母妹の小姉君(おあねぎみ)を妃として崇峻天皇を生む

【欽明天皇ゆかりの地】

 <御陵>
 檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)(奈良県明日香村)
 公式形式は前方後円(前方後円墳)、墳丘長140m
 遺跡名は、梅山古墳(平田梅山古墳)

【その他】

 <葵祭
 「賀茂縁起」によると
 567年(皇紀1227)欽明天皇18年
 日本国中が風水害により凶作に見舞われ、飢餓疫病が流行したため、勅命により卜部伊吉若日子(うらべいきわかひこ)が
占ったところ、賀茂大神の祟りであると分かり
 4月の第2の酉の日に、
 欽明天皇が勅使を遣わして、騎手は猪頭(いのがしら)を被って、馬に葵を飾り鈴を付けて走らせ、五穀豊穣を祈ったことが由来


【京都検定 第13回2級】

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