欽明天皇(きんめいてんのう)は、古墳時代の第29代天皇
朝鮮半島の百済より仏教が伝来し、任那が滅亡した時代
<都>
磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)を都とする
<任那日本府>
朝鮮半島において、伽耶(みまな)諸国に侵入しようとする新羅(しらぎ)に対し、
勢力拡大をめざしていた百済が、日本(倭国)の支援を得て新羅の侵入を阻止しようとした
百済の聖明王(せいめいおう)と、任那諸国の復興について協議が続けられていた
新羅との戦で聖明王が亡くなり、新羅軍が勢いづき、任那を滅ぼしてしまう
欽明天皇は、崩御されるまで、新羅を討って任那を復興するよう遺詔した
<伝来>
欽明天皇に百済の聖明王が、仏像経論を献じたのが、仏教の最初の渡来とされる
釈迦仏や五経博士、経論などの伝来、技術者の渡来など、日本へ与えた影響は大きい
崇仏(すうぶつ)の是非をめぐって、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で対立が起こる
<子孫>
宣化天皇の皇女 石姫を皇后として敏達天皇を
蘇我稲目の娘 堅塩媛(きたしひめ)を妃として用明天皇、推古天皇
その同母妹の小姉君(おあねぎみ)を妃として崇峻天皇を生む
<御陵>
檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)(奈良県明日香村)
公式形式は前方後円(前方後円墳)、墳丘長140m
遺跡名は、梅山古墳(平田梅山古墳)
<葵祭>
「賀茂縁起」によると
567年(皇紀1227)欽明天皇18年
日本国中が風水害により凶作に見舞われ、飢餓疫病が流行したため、勅命により卜部伊吉若日子(うらべいきわかひこ)が
占ったところ、賀茂大神の祟りであると分かり
4月の第2の酉の日に、
欽明天皇が勅使を遣わして、騎手は猪頭(いのがしら)を被って、馬に葵を飾り鈴を付けて走らせ、五穀豊穣を祈ったことが由来