村上天皇(むらかみてんのう)

平安時代中期の第62代天皇

生年:926年(皇紀1586)延長4年6月2日
崩御:967年(皇紀1627)康保4年5月25日
宝算:42

第60代 醍醐天皇の第14皇子
母親:中宮 藤原穏子(ふじわらおんし)(太政大臣 藤原基経の娘)
第61代 朱雀天皇の同母弟

諱:成明(なりあきら)

即位:946年(皇紀1606)天慶9年4月28日
譲位:967年(皇紀1627)康保4年5月25日

元号:天慶・天暦・天徳・応和・康保

先代:朱雀天皇
次代:冷泉天皇

皇后:藤原安子
皇子:憲平親王(冷泉天皇)、守平親王(円融天皇)ほか

別称:天暦帝
法名:覚貞

陵墓:村上陵

 村上天皇(むらかみてんのう)は、平安時代中期の第62代天皇

 政治にも関心深く、摂関を置かず、親政を行い、先代の醍醐天皇に治世と併せて「延喜・天暦の治」と称される

【村上天皇の歴史・経緯】

【村上天皇】

 <延喜・天暦の治>
 政治にも関心深く、摂関を置かず、親政を行い、朝儀にも精通して自ら儀式書「清涼記」を撰して、良き治めをした
 先代の醍醐天皇に治世と併せて「延喜・天暦の治」と称される

 村上天皇は、摂関を置かず親政をしき「天暦の治」と称される

 平将門と藤原純友の起こした承平天慶の乱により、朝廷の財政が逼迫し倹約に努めたといわれる
 関白太政大臣 藤原忠平の私財に依存することも大きかったといわれる
 藤原忠平の死後は、息子 藤原実頼が、太政官として治安維持や収取確保に努めたといわれる

 後世の「枕草子」には、村上天皇を中心に政務が執行され、臣下がそれを補佐するという体制に、
理想的な親政国家の姿として記されている


 <后妃・皇子女>
 中宮 藤原安子(右大臣 藤原師輔の長女)
   皇子:夭逝
   第一皇女:承子内親王
   第二皇子:憲平親王(冷泉天皇
   第四皇子:為平親王
   第七皇女:輔子内親王(伊勢斎宮)
   第九皇女:資子内親王
   第七皇子:守平親王(円融天皇
   皇女:夭逝
   第十皇女:選子内親王(大斎院)(賀茂斎王
 女御:徽子女王(斎宮女御)(式部卿 重明親王の第一王女)
   第四皇女:規子内親王(伊勢斎宮)
   第八皇子:即日死去
 女御:荘子女王(麗景殿女御)(中務卿 代明親王の王女)
   第六皇女:楽子内親王(伊勢斎宮)
   第九皇子:具平親王(後中書王)
 女御:藤原述子(弘徽殿女御)(左大臣 藤原実頼の三女)
 女御:藤原芳子(宣耀殿女御)(大納言 藤原師尹の娘)
   第六皇子:昌平親王
   第十皇子:永平親王

 ほか、更衣5名、後宮1名に子女多数

【村上天皇ゆかりの地】

 <御陵>
 村上陵(右京区鳴滝宇多野谷)
 公式形式は円丘
 径24mの円墳
 「日本紀略」に、山城国葛野郡田邑郷北中尾に葬られたと記されている

 <醍醐寺
 父親 醍醐天皇の冥福を祈るために兄 朱雀天皇が起工
 村上天皇の代の951年(皇紀1611)天暦5年に完成する

 <佛陀寺
 朱雀天皇・村上天皇を開基とする勅願所だったところ
 村上天皇が、兄 朱雀上皇仙洞御所朱雀院を寺院に改め、遺志をついで別院大蔵院を建立し、
朱雀上皇の法号「仏陀寿」にちなんで「佛陀寺」と称した
 本尊の脇侍 鎧観音菩薩像は、村上天皇の守護仏

 <延暦寺
 瑠璃堂(重要文化財)は、村上天皇の勅命により、天台座主延昌が創建し、薬師大像・日光月光十二神将を安置したといわれる
 元三大師堂(四季講堂)は、村上天皇の勅命によって、一年に渡り法華経の論経、論議が行われ「四季講堂」とも称される

 <林光院
 村上天皇と紀貫之との故事にちなむ名梅「鶯宿梅(おうしゅくばい)」がある

 <錦小路通
 「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」によると、
 錦小路は、平安時代には「具足小路(ぐそくこうじ)」と称され、その後、転訛して「糞小路(くそこうじ)」となり、
 村上天皇の勅命により、四条通をはさんでひとつ南の「綾小路」にちなんで「錦小路」に改められたと記述されている

【その他】

 <和歌>
 960年(皇紀1620)天徳4年3月に内裏歌合「天徳歌合(てんとくうたあわせ)」を開催し、歌壇の庇護を行う
 歌人としても優れていたといわれる

 天暦御歌
 「円居(まとゐ)してみれどもあかぬ藤浪のたたまく惜しき今日にも有るかな」(新古今和歌集

 <後撰和歌集
 村上天皇により、和歌所(わかどころ)が設置され、951年(皇紀1611)天暦5年に編纂が命じられる


 <雅楽・琵琶>
 第14皇子ということから、天皇に即位することは思っていなかったようで、
 若い頃から雅楽など、琴や琵琶などの楽器にも精通したといわれる


 <儀式書「清涼記」>
 村上天皇は、朝儀にも精通して自ら儀式書を著したといわれる

 <「村上天皇御記」>
 949年(皇紀1609)天暦3年〜967年(皇紀1627)康保4の自著日記
 「天暦御記」とも称される


 <乾元大宝>
 皇朝十二銭の最後となる乾元大宝(けんげんたいほう)が鋳造された


 <安倍晴明
 天文得業生として、村上天皇の占いを行っていたといわれる


 <皇服茶
 空也上人が村上天皇の病気退散を祈願し、お茶を奉ったところたちまち病気が治ったという
 現在も、正月三が日に六波羅蜜寺で飲まれる


 <ずいき祭
 村上天皇の時代に、北野天満宮に五穀豊穣を祈り、新穀・蔬菜・果物に花などを供えて神前に献上したのが由来ともいわれる


 <故事「鶯宿梅(おうしゅくばい)」>
 「大鏡」によると、天暦年間(947年〜957年)
 御所清涼殿前の梅の木が枯れ、名梅が探され、西の京の紀貫之の娘 紀内侍の屋敷の梅が、勅命により御所に移植された
 村上天皇は大変気に入ったが、その梅の枝に
  「勅なればいともかしこし鶯の宿はととはばいかがこたえん」(拾遺和歌集)
  (勅命とあらば大変恐れ多いことだが、もし、この紅梅に毎年巣を作るウグイスが帰ってきて、
  我が家はどこへいってしまったかと尋ねられたら、私はどのように答えたらよいのでしょう)と記された短冊が吊るされていた
 その梅の木は、紀貫之が手入れしていた父親の形見で、その梅の木との別れを惜しんだ歌であることを知った村上天皇は、
 この梅の木をもとの庭に返されたといわれる
 現在も、その梅の木は、紀貫之屋敷跡に林光院が創建され残されている


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