正親町天皇(おおぎまちてんのう)

戦国時代から桃山時代の第106代天皇

生年:1517年(皇紀2177)永正14年5月29日
崩御:1593年(皇紀2253)文禄2年1月5日
宝算:77

父親:第105代 後奈良天皇
第一皇子
母親:藤原栄子(吉徳門院)(参議万里小路賢房の娘)

諱:方仁(みちひと)

即位:1557年(皇紀2217)弘治3年10月27日
退位:1586年(皇紀2246)天正14年11月7日

先代:後奈良天皇
次代:後陽成天皇

陵墓:深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)

 正親町天皇(おおぎまちてんのう)は、戦国時代から桃山時代の第106代天皇

 戦国時代の争乱で、朝廷や公家たちの財政が貧窮しており、先代の葬礼や即位の儀式などが適宜に行えなかった

 足利義昭織田信長明智光秀豊臣秀吉と戦国の転変の世の中で、天皇家の権威を維持した

【正親町天皇の歴史・経緯】

【正親町天皇】

 三条西公条・三条西実枝に和歌・古典の指導を受けて、和歌御会等の開催にも積極的であったといわれる

 <歌集「正親町院御百首」>
 「憂世(うきよ)とて誰れをかこたむ我れさへや心の儘にあらぬ身なれば」(正親町天皇)


 <著作「年中御作法留」>

【正親町天皇ゆかりの地】

 <船岡山
 本能寺の変の後、豊臣秀吉が、正親町天皇の勅許を得て、船岡山を、主君である織田信長の霊地と定め祀る

 <建勲神社
 織田信長を祭神として、船岡山に創建される

 <三嶋神社
 正親町天皇により再建される

 <住吉神社
 正親町天皇が、荒廃を惜しまれ、現在の地に遷座し、正殿を造営する

 <知恩院
 正親町天皇の綸旨(りんじ)により浄土宗の総本山となる

 <大覚寺
 後光厳天皇・後花園天皇・後奈良天皇・正親町天皇・光格天皇なども写経され、「心経写経の本山」「写経の道場」と称される

 <大雲院
 紙本墨書 正親町天皇宸翰消息(重要文化財)を所蔵する

 <廬山寺
 正親町天皇宸翰女房奉書(重要文化財)を所蔵する


 <御陵(みささぎ)>
 深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)(伏見区深草坊町)
 宮内庁上の形式:方形堂

【その他】

 <イエズス会の宣教師>
 1570年(皇紀2230)元亀元年
 フランシスコ・ザビエルの後任である布教責任者のコスメ・デ・トーレスにより
日本には正親町天皇と信長の2人の統治者がいると報告書に記述されている
 「日本の世俗国家は、二つの権威、すなわち二人の貴人首長によって分かたれている
 一人は、栄誉の授与にあたり、他は権威・行政・司法に関与する
 どちらの貴人も都(みやこ)に住んでいる
 栄誉に関わる貴人は皇(おう)と称されており、その職は世襲である
 民びとは彼を偶像のひとつとしてあがめ、崇拝の対象としている」


 <本能寺の変の朝廷関与説>
 1573年(皇紀2233)天正元年
 足利義昭との戦いの後ぐらいから、信長にその存在を疎まれるようになる
 同年12月8日
 「孝親日記」に、信長との確執や、譲位を迫っていることが記されている
 1576年(皇紀2236)天正4年
 信長と、興福寺別当の人事を巡り対立する

 信長としては、誠仁親王を早く天皇にすることで、より朝廷の権威を利用しやすいものにしようという思惑があったといわれ、
 正親町天皇は、信長による譲位を最後まで拒んだとされる


 <信長の譲位反対説>
 1581年(皇紀2241)天正9年
 正親町天皇は65歳、誠仁親王は30歳となり、正親町天皇は、病気気味であったといわれる

 清涼殿に仕える女官の日誌「お湯殿の上の日記」によると、
 同年3月9日
 信長が京都で大規模な馬揃えを行った直後、正親町天皇から信長に退位の意向が伝えられた
 同年3月24日
 譲位がいったん朝議で決定されて「めでたいめでたい」と記されている

 「兼見卿記」4月1日の条には
 正親町天皇の譲位が、一転中止になったと記されている
 理由としては、譲位に関する諸儀式や退位後の上皇の御所の造営などに関わる莫大な経費を
信長が捻出せず、譲位に同意しなかったからといわれる


 <千利休
 1585年(皇紀2245)天正13年10月7日
 豊臣秀吉の正親町天皇への禁中茶会に奉仕し、
町人の身分では禁中に参内できないために、堺の南宗寺の大林宗套が考案した居士号「利休」を正親町天皇により賜った

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