崇徳天皇(すとくてんのう)は、平安時代末期の第75代天皇
白河法皇に寵愛され父親 鳥羽天皇から譲位されて3歳で即位し、鳥羽天皇により22歳で譲位させられる
白河法皇、続いて鳥羽上皇が院政を行い、実質な政治を行うことはなかく、和歌に没頭する
鳥羽法皇の崩御後、実弟 後白河天皇に敵対視され、
藤原忠実(中宮 皇嘉門院の父親)と藤原頼長(崇徳天皇の側近)の親子の争いから保元の乱に巻き込まれ、
出家するも讃岐国に配流され「讃岐院」と称された
配流先で崩御され、日本三大怨霊(平将門・菅原道真)とされる
崇徳院は、在位中から頻繁に歌会を催されおり、
上皇になられてからは、院政が行えず、和歌の世界に没頭したといわれる
鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の歌壇は崇徳院が中心となっていたといわれる
<詞花和歌集(八代集の第六)>
藤原顕輔に勅撰を命じる
1151年(皇紀1811)仁平元年に完成し奏覧
<千載和歌集(八代集の第七)>
23首が入集されている
<久安百首>
康治年間(1142年〜1144年)
崇徳院から題が下され作成された百首歌
作者は崇徳院、藤原公能、藤原教長、藤原顕輔、藤原俊成など14名
「久安六年百首」「崇徳院御百首」とも称される
<小倉百人一首 77番>
「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」(崇徳院)
(意訳:滝の水は岩にぶつかると二つに割れるが、すぐにまた一つになるように、
現世では障害があって結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれましょう)
<御陵(みささぎ)>
白峯陵(しらみねのみささぎ)(香川県坂出市青海町)
宮内庁上の形式:方丘
配流先の崩御地で造営された陵墓が、宮内庁により治定された
香川県の中央に位置する連山五色台の西側、白峰の北側中腹標高260m地点に位置する
四国八十八箇所第八十一番札所白峯寺に隣接している
毎年9月21日に御正宸祭(ごしょうしんさい)の儀が行われている
この日に限り、奥の柵まで、鳥居をくぐって参拝することができる
<崇徳天皇御廟>
東山区祇園町南側
毎月、白峯神宮の神官による月次祭が行われている
<日本三大怨霊>
平将門
菅原道真
崇徳天皇(崇徳院)
小説「雨月物語」「椿説弓張月」などにおいても怨霊として描かれている
<前後の天皇>
第73代 白河天皇 曾祖父 治天の君
第74代 鳥羽天皇 父親 堀河天皇の皇子(白河天皇の孫) 院政:白河法皇
第75代 崇徳天皇 鳥羽天皇の第1皇子 母親:藤原璋子(待賢門院) 院政:白河法皇・鳥羽上皇
第76代 近衛天皇 同母弟 鳥羽天皇の第9皇子 母親:藤原得子(美福門院) 院政:鳥羽上皇
第77代 後白河天皇 同母弟 鳥羽天皇の第4皇子 母親:藤原璋子(待賢門院)院政:鳥羽上皇
怨霊までの経緯
<父親 鳥羽上皇との確執>
「古事談」によると
崇徳天皇は、鳥羽天皇の第一皇子であるが、白河法皇が養子の藤原璋子(待賢門院)に生ませた子と噂され、
白河法皇に可愛がられており、
鳥羽上皇は、崇徳天皇のことを「叔父子」と称していたといわれる
崇徳天皇は3歳のときに、白河法皇が鳥羽天皇に譲位させ即位した
白河法皇が崩御されてからは、鳥羽上皇により院政が行われる
<近衛天皇への譲位>
鳥羽上皇は、中宮の待賢門院より藤原得子(美福門院)を寵愛して、
22歳の崇徳天皇に譲位を迫り、藤原得子が生んだ鳥羽上皇の第9皇子 体仁親王(近衛天皇)を即位させた
院政は、自分の子供や孫の天皇に対して行われており、自分の弟が天皇となってしまい、崇徳天皇が院政を行うことを阻められた
<近衛天皇の崩御>
病弱だった近衛天皇が、17歳で崩御される
「台記」によると
鳥羽法皇や美福門院は、崇徳上皇に近い藤原頼長に呪詛されたと信じていたといわれる
<後白河天皇の即位>
近衛天皇の皇継候補としては、崇徳上皇の第一皇子 重仁親王が最有力だったが、
美福門院の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、
守仁親王の父親 雅仁親王(鳥羽天皇の第4皇子)(崇徳上皇の同母弟)が立太子しないまま即位(後白河天皇)した
重仁親王か守仁親王が即位した場合には、
鳥羽法皇が崩御したときに唯一の上皇となる崇徳上皇が院政を行うことになる可能性があったが、
成人している雅仁親王、その子 守仁親王が皇継となることで
崇徳上皇が院政を行える可能性がなくなった
<鳥羽法皇の崩御>
「古事談」によると
崇徳上皇が、父親 鳥羽法皇の見舞いに訪れたが、対面ができなかったといわれる
さらに、鳥羽法皇は、側近の葉室惟方に、自身の遺体を崇徳上皇に見せないように遺言されており
崇徳上皇は、憤慨して鳥羽田中殿に引き返したといわれる
<後白河天皇の御教書(綸旨)>
鳥羽法皇が崩御されて3ケ日後
「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流される
後白河天皇が、藤原忠実・藤原頼長が荘園から軍兵を集めることを禁止する御教書(綸旨)が諸国に下す
蔵人 高階俊成と源義朝の随兵が、摂関家(藤原頼長)の正邸 東三条院に乱入して、邸宅を没官した
これを機に、保元の乱が起こる
<保元の乱の策謀>
崇徳院の院政になると自身の立場が危うくなる美福門院や、
父親 藤原忠実と弟 藤原頼長との対立に苦慮し、兵衛佐局と崇徳院の仲を嫌う皇嘉門院の父親 藤原忠通や、
雅仁親王の乳母の夫で権力の掌握を目指す僧 信西(藤原通憲)らの策謀があったといわれる
謀反人とされた藤原頼長は、宇治から戻り、挙兵の正当性を得るために崇徳上皇の味方につく
<崇徳上皇の出家>
崇徳上皇は、権力放棄を示して投降するために剃髪する
仁和寺に出頭して、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼するが、覚性法親王に断られる
<讃岐国への配流>
崇徳法皇は、寵妃の兵衛佐局と数人の女房だけで、鳥羽から船で、讃岐国へ配流され、
後白河天皇は、勝利を高らかに宣言した宣命を出す
天皇・上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、約400年ぶりとなる
崇徳法皇は、二度と京都に戻ることがなく、
中継ぎで即位した実弟の後白河天皇が、強力な権力を手に入れる
<五部大乗経>
法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経の5つ
「保元物語」によると、
崇徳法皇は、仏教を深く信仰し、極楽往生を願い、五部大乗経の写本を行い
朝廷に、戦死者の供養と反省の証に、私の代わりに京の寺院に収めて欲しいと嘆願する
後白河上皇は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返した
写本を送り返された崇徳法皇は、激怒して、舌を噛み切って写本に、
「日本国の大魔縁となり皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と血で書き込んだといわれる
<大天狗>
崇徳法皇は、崩御されるまで爪や髪を伸ばしたままで、夜叉のような姿になられたといわれる
<崇徳法皇の崩御>
配流されてから8年後、京に戻ることなく、配流先の讃岐国で崩御される
崇徳法皇の葬儀は、讃岐国の国司によって行われ、朝廷による葬礼は行われなかった
崇徳法皇の棺からは、血が流れ出てきたといわれる
<怨霊の噂>
崇徳法皇が崩御されてから12年後
建春門院・高松院・六条院・九条院など、後白河法皇や藤原忠通に近い人々が相次いで死去する
翌年には、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こる
貴族の日記などには、讃岐院(崇徳法皇)の怨霊に関する記事が、たびたび記されるようになる
かつての側近だった藤原教長が、崇徳法皇と藤原頼長の悪霊を神霊として祀るべきと主張する
<怨霊鎮魂>
後白河法皇は、怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し、「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改め、
藤原頼長には、正一位太政大臣を追贈される
保元の乱の戦場跡である春日河原には、「崇徳院廟」(後の粟田宮)が設置され、
地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)の保護も行われる
<白峯神宮>
祭神:崇徳天皇
1868年(皇紀2528)慶応4年8月18日
明治天皇は、自らの即位の礼を行うにあたり、
勅使を讃岐に遣わして、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した
<崇徳天皇八百年祭>
1964年(皇紀2624)昭和39年
昭和天皇は、崇徳天皇八百年祭にあたり、香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を行った
<日本三大悪妖怪>
日本史上で最強の鬼とされる酒呑童子
玉藻前で有名な白面金毛九尾の狐
恨みによって大天狗と化した崇徳天皇
<土御門上皇>
鎌倉時代初期
承久の乱で土佐に流された土御門上皇(後白河法皇のひ孫)が、
途中で、崇徳天皇陵に立ち寄り、御霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳院が現れて、
京都に残した家族の守護を約束してもらう
その後、土御門上皇の遺児である後嵯峨天皇が、鎌倉幕府の推挙により即位されている
<細川頼之>
室町時代
四国の守護となった管領 細川頼之が、崇徳院の菩提を弔ってから四国平定に出陣し平定を成し遂げた
その後、細川氏は代々の守護神として崇徳院を崇敬したといわれる
<安井金比羅宮>
旧称:崇徳天王社
祭神:崇徳院
<瀧尾神社>
末社:金刀比羅宮
祭神:崇徳院
<六勝寺 成勝寺>
崇徳天皇の勅願寺
1139年(皇紀1799)保延5年の創建
<長楽寺>
崇徳上皇御念持三尊仏
恵信僧都の作
七条道場金光寺の本尊として祀られていたものが、金光寺の合併で移管される
崇徳上皇の霊魂を鎮めるために念持仏であった恵信僧都作の弥陀三尊像が祀られることになったといわれる
<積善院>
崇徳院地蔵堂
崇徳院地蔵が祀られている