鳥羽天皇(とばてんのう)
平安時代後期の第74代天皇
生年:1103年(皇紀1763)康和5年1月16日
没年:1156年(皇紀1816)保元元年7月2日
享年:54
父親:
堀河天皇
第一皇子
母親:贈皇太后 藤原苡子(藤原実季の娘)
諱:宗仁(むねひと)
法名:空覚
在位:1107年(皇紀1767)嘉承2年7月19日 - 1123年(皇紀1783)保安4年1月28日
先代:
堀河天皇
後代:
崇徳天皇
皇后:藤原璋子、藤原泰子、藤原得子
皇子女:顕仁親王(
崇徳天皇)、雅仁親王(
後白河天皇)、体仁親王(
近衛天皇)ら
御陵:
安楽寿院御陵(あんらくじゅいんのみささぎ)(伏見区竹田浄菩提院町)
鳥羽天皇(とばてんのう)は、平安時代後期の第74代天皇
白河法皇の崩御に伴い、院政を敷き、その後、崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇の3代28年にわたり実権を掌握する
譲位後は、鳥羽離宮に住み、その東殿に建てられた安楽寿院を自らの陵所に定められた
勅願寺の造営を多く行い、熊野信仰に篤く、21回も参拝を行った
【鳥羽天皇の歴史・経緯】
【鳥羽天皇ゆかりの地】
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鳥羽離宮>
平安時代後期に、白河上皇・鳥羽上皇が造営した壮大な離宮
白河上皇・鳥羽上皇・
後白河上皇により院政が行われ政治の舞台となった院御所と、御堂、苑池からなる
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安楽寿院>
鳥羽上皇の勅願により、鳥羽離宮の東殿に建てられた御堂
鳥羽上皇は、この地を、自らの陵所に定め、安楽寿院で崩御され、遺言に従い本御塔に埋葬される
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北向山不動院>
興教大師(こうきょうだいし)覚鑁(かくばん)が、鳥羽天皇の病気平癒を祈願したときに
不動明王が現れ、
回復された鳥羽天皇の勅命により、
勅願寺として
鳥羽離宮内に創建され、興教大師により開山される
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松尾寺>
大銀杏(舞鶴市市指定天然記念物)は、鳥羽天皇のお手植えといわれる
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六勝寺>
最勝寺跡は、鳥羽天皇の勅願寺として創建された
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青蓮院>
第十二世
天台座主 行玄大僧正が、鳥羽上皇の帰依を受けて、三条白川房に移転させ、鳥羽上皇の命により院の御所に準じて、
「青蓮院」と称し、行玄大僧正が第一世の門主となる
【その他】
<歌道>
金葉集に初出
勅撰には8首が入集している
1152年(皇紀1812)仁平2年の鳥羽上皇の五十御賀(五十歳の祝い)の翌年に、鳥羽殿で桜の時期に詠んだ歌
「心あらば 匂ひを添へよ 桜花のちの春をば いつか見るべき」
鳥羽殿で病床について、時鳥(ほととぎす)の鳴き声を聞いて詠んだ歌
「つねよりもむつましきかな時鳥しでの山路の友とおもへば」
<安楽寿院御陵(あんらくじゅいんのみささぎ)>
公式形式:方形堂
生前に、鳥羽の安楽寿院境内に三重塔の寿陵が建立され、崩御後、遺詔により遺骸をこの塔下に納められた
その後、焼失と再建が繰り返された
元治元年(1864年)、修陵にされ、鳥羽天皇の御陵とされている
【京都検定 第4回2級】
【京都検定 第9回2級】
【京都検定 第12回2級】
【京都検定 第3回1級】