総見院(そうけんいん)は、大徳寺の北部にある塔頭の一つで、豊臣秀吉が建立した織田信長の菩提寺
明治時代まで、大徳寺管長の住まいであったため「隠寮」とも称される
<本堂>
内陣正面の中央に、織田信長の坐像が安置され、織田信長や織田家一族の位牌が祀られている
回廊の下には、織田信長の木像を乗せた御輿が吊り下げられている
1928年(皇紀2588)昭和3年に、かつてあった禅堂が再興されたもの
<茶筅塚>
本堂の手前にある
茶筅の供養塔
4月28日に茶筅供養が行われている
<鐘楼>
1599年(皇紀2259)慶長4年
織田信長の家臣 益田元祥らの寄進による建立
文政年間(1818年〜1830年)に現在の地に移転された
鐘は、1583年(皇紀2243)天正11年、堀秀政の寄進で、鐘の銘文は、開祖 古渓宗陳による
<表門>
1583年(皇紀2243)天正11年の創建当時のもの
<茶室「寿安席(じゅあんせき)」>
3つの茶席のうち一番北にある
八畳で、襖には五色の桐の紋があり、一休宗純の掛軸が架けられている
大正時代初期の大阪の山口玄洞の建立
<茶室「香雲軒(こううんけん)」>
八畳
表千家の即中斎好み
<茶室「ほう庵」>
三畳向切
<墓地>
境内の北にある
織田家一族の7基の五輪塔が立っている
織田信長のお墓があり、左隣りに次男 信雄、その左に信雄の長男 秀雄
右隣りに長男 織田信忠、その右へ四男 羽柴秀勝(豊臣秀吉の養子となる)、七男 信高、十男 信好
<掘抜き井戸>
本堂横にある現在も使われている井戸
井戸の深さは10m以上あり、鴨川の伏流水が湧いている
創建当時に造られたもの
加藤清正が、朝鮮出兵のときに持ち帰ったとされる大きな一つの朝鮮石で彫りぬかれている
出兵時には人も食料も大量に乗せられているが帰りには軽くなるので、バランスを取るために石や灯籠を持ち帰ったといわれる
<親子塀>
表門の左右に広がる土塀
創建当時のものといわれる
塀の中に塀がある珍しい空洞のある二重構造の塀となっている
内部の空洞部分には、非常時に武士が隠れたともいわれる
<胡蝶佗助(こちょうわびすけ)(京都市指定天然記念物)>
玄関前に立つ、豊臣秀吉遺愛の侘助椿の大樹
ツバキ科、樹高は約6.4m
樹齢は約400年ともいわれ、日本最古といわれる
地上75cm程のところで東幹と西幹に別れ、さらに東幹が地上110cmのところで南幹、北幹に分かれ、3本の枝がある
紅白の花をつけ、お茶席の切り花に重用された
1583年(皇紀2243)天正11年
豊臣秀吉が、総見院の創建時に、千利休から譲り受けて植えたものといわれる
「豊公遺愛のわびすけ」の碑が立つ
<木造 織田信長坐像(重要文化財)>
本堂の正面の中央に安置されている
衣冠束刀で、眼力が鋭く、最晩年の面影を表しており、115cm(3尺8寸)で、ほぼ等身大だといわれる
天正十一年五月吉日の仏師康清の銘がある作品
織田信長の木像は、2体作られ、
1体は、沈水香木で作られ、1582年(皇紀2242)天正10年の大徳寺での葬儀のときに使われ、本能寺の灰とともに
火葬されたといわれ、その時には、香木の甘い香りが都に匂ったといわれる
現在のもう1体は、当初、船岡山東麓に建立される予定だった天正寺に祀られる予定だったが、計画が中止されたため、
総見院での1周忌法要で用いられ、祀られることになる
明治維新
廃仏毀釈を避けるために、木像を大徳寺に避難される
1961年(皇紀2621)昭和36年
織田信長380年忌に、大徳寺から御輿に乗せられ当総見院の本堂に戻された
<木造 古渓宗陳像>
古渓宗陳の木像が本堂に祀られている
<古渓宗陳画像>
1588年(皇紀2248)天正16年の作
古渓宗陳の自賛がある